600年の歴史、静寂の大雄寺。
曹洞宗黒羽山大雄寺の特徴
黒羽山久遠院大雄寺は600年以上の歴史を誇る曹洞宗の寺院です。
お参りには参道の坂を上がる必要がありますが、杖が用意されています。
映画の撮影が行われるほど、訪問者が多い魅力あるスポットです。
駐車場は参道の真下にあります10台以上停められます参道の坂を上がる入口に杖が提供されていますがそれほど急坂ではありませんでした参拝料はなく自由に参拝できます禅寺だけに静かな雰囲気の中でのお参りです。
那須七騎史跡2022年5月6日来訪。大雄寺は曹洞宗の禅寺で、「だいおうじ」と呼びます。この地を治めていた大関氏により、1404年、居城の白旗城内に菩提寺として建立された。1576年、大関高増が、居城を白旗城から黒羽城に移した際に、大雄寺もこの場所に移され、関ケ原の戦いを経て大関氏の黒羽藩が成立すると、その菩提寺として続いた。本堂には、江戸時代から伝わる「枕返しの幽霊」という、どこから見てもにらまれているように見える珍しい掛け軸があり、この掛け軸の前で寝ると、朝には知らない間に反対向きになっているという言い伝えがある。この寺の西側には、大関家代々の墓地があり、「大関家御代々御先祖様御石碑順」によると、高増の先代の大関増次を第1順位として葬られている。寺の名称も、増次の戒名である「久遠院殿超山道宗大居士」から一部を取り、「久遠院大雄寺」と名付けられ、増次を中興開基として位置付けられている。大関高増は、1518年に大関宗増の讒言により失脚した大俵資清の嫡男であり、24年後の1542年に、大俵資清が大関宗増の継嗣であった増次を急襲して敗死させ、その後大関家に嫡男である高増を養嗣子として送り込み、大関氏を乗っ取ったという経緯がある。その増次の戒名を大雄寺の名前に入れて中興開基としたのは、大関氏の名跡を乗っ取った高増が大関家家中の反発を懐柔する為であったものと思われる。大関家代々墓地には、芦野石で造られた歴代の藩主の墓が、順不同で整然と並び、それぞれに石灯篭が設けられ、下段には家臣達の墓も並んでいる。この中に、「大関高増」の墓があるが、この高増は、大雄寺をこの地に移転した高増ではなく、その曾孫に当たる黒羽藩第3代藩主高増公の墓である。つまり、「増次」-「高増」-高増の子「清増、晴増、資増(初代黒羽藩主)」-晴増の子「政増」-政増の子「高増」である。大雄寺をここに移した大関高増の墓は、ここに葬られることなく、ここから北東に離れた晩年の隠棲先である光厳寺に眠っている。
ゴールデンウィークに初訪問しました😃何かの映画の撮影で多くの関係者の方々が境内で動き回っていました🤓大雄寺は、黒羽山 大雄寺(くろばねさん だいおうじ)は600年以上の歴史を持つ曹洞宗の禅寺です。大雄寺の7つの茅葺きの建築物は、国から重要文化財の指定を受けています🥸応永(おうえい)11年(1404)に開山されたのが始まりといわれ、領主であった大関氏の菩提寺(ぼだいじ)として庇護され、天正(てんしょう)4年(1576)に大関高増(おおぜきたかます) が余瀬(よぜ)の白旗城(しらはたじょう)から黒羽城へ居城を移すに際し、大雄寺も現在地に移ったとされます🧐東を正面とする大雄寺は、総門の両脇から廻廊(かいろう)が延び、奥に立つ本堂を中心に、北に庫裏(くり)、南に禅堂(ぜんどう)が対峙しながら建つのを結んでおり、廻廊内には鐘楼(しょうろう)、廻廊外には経蔵(きょうぞう)がそれぞれ配置され、伽藍(がらん)が形成されています😌5月初旬から中旬にかけて境内に多くのシャガやボタンが咲き誇ります。観光客の外に精神修養の場として坐禅に訪れる方も多いようです😉※牡丹見頃 4月下旬~5月中旬※紫陽花の見頃 6月下旬~7月中旬。
令和の時代でも昔の雰囲気の残るお寺です。花がいろいろあり美しさもあります。
くろばねさんだいおうじです。だいゆうじかと思ってました汗曹洞宗の禅寺で国の重文に指定されています。黒羽地区は歴史が感じられていいですね。道路脇の駐車場は広く、檀家さんなどは上の駐車場に停められます。階段途中には一六羅漢像が鎮座し趣があります。回廊があり本堂含め茅葺きです。なかなか良いです。御朱印(500円)をいただきましたが、ご住職は若くて気さくな方で黒羽の見所など教えていただきました。よく整備され、トイレもとてもきれいです。
| 名前 |
曹洞宗黒羽山大雄寺 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0287-54-0332 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 9:00~16:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
|
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黒羽山久遠院大雄寺(くろばねさんくおんいんだいおうじ)といい曹洞宗のお寺で御本尊は釈迦如来になります。寺は今から六百年前の応永十一年(1404年)に開山されたのが始まりといわれ領主であった大関氏の菩提寺として庇護された、天正四年(1576年)に大関高増が余瀬の白旗城から黒羽城へ居城を移す際に大雄寺も現在地に移ったとされます。東側を正面とする大雄寺は総門の両脇から廻廊が延び奥に建つ本堂を中心に北側に庫裡南側に禅堂が対峙しながら建つのを結んでおり廻廊内には鐘楼廻廊外には経蔵がそれぞれ配置されています。大雄寺の七つの伽藍は全て茅葺きで国の重要文化財に指定されています。