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小菅波4号墳は、加賀市に所在する古墳時代前期の墓で、小規模ながら北陸地方で最初期に築かれた前方後方墳の一つとされる。加賀市白山台の丘陵上に点在する小菅波古墳群には、AからDまで4つの支群に分類される複数の古墳が含まれている。その中でも小菅波4号墳は、丘陵の縁部に築かれた全長16メートル余りの前方後方墳であり、加賀地域における古墳文化の出発点を示す貴重な遺構である。発掘調査では、墳頂部に2つの埋葬主体が確認され、それぞれ木棺を直接埋設する形式がとられていた。石室を伴わず、土壙に木棺を据えるだけの埋葬方法は、弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての特徴と一致している。副葬品としては、第1主体からガラス製小玉や鉄製工具が出土し、第2主体からは鉄鏃が発見されている。また、墳頂や墳丘周囲の周溝からは、多数の土器片が確認されており、墳丘上での祭祀が行われた痕跡とみられる。中でも、頸部に二重の口縁を持つ壺や、表面に文様が施された加飾壺は、当時の葬送儀礼に関わる供献土器と位置づけられている。こうした祭祀遺物の配置は、西日本を中心とした初期古墳に共通する要素であり、北陸地方にも早期から葬制文化が伝播していたことを物語っている。墳丘の周囲には川原石や埴輪の存在は確認されておらず、また明瞭な列石や外部施設も認められていない。これは本古墳の築造された時期に、こうした要素がまだ一般化していなかったためと考えられる。また、墳丘の周囲には環状の溝がめぐり、その外側からも土器が出土していることから、葬儀の場と日常の空間とを分ける意識がすでに芽生えていたことがうかがえる。小菅波4号墳の築造時期は、土器編年に基づいて3世紀後半から4世紀初頭とされる。この時期は、近畿地方において前方後円墳が現れ始め、ヤマト王権が成長しつつあった段階にあたる。加賀地方では、弥生時代後期の方形周溝墓や四隅突出型墳丘墓などの後を受けて、初期の古墳が出現し始めた時期であり、小菅波4号墳はまさにその先駆的な位置にあるといえる。この古墳の被葬者像については明らかではないが、武器や装身具、工具などを副葬していることから、当時の地域首長層の人物であったと推定される。墳丘の立地が平野を一望する高台にあり、さらに複数の古墳が周囲に営まれていることからも、この地が一族の墓域として計画的に利用されていたことがうかがえる。特に小菅波4号墳は、A〜Dに分かれる支群の中でも中心的な存在であり、江沼平野における初期古墳群の中核をなしていた。小菅波古墳群には、4号墳のほかに直径10〜20メートル前後の方墳・円墳が複数確認されており、それらの一部は白山台古墳公園として整備されている。丘陵全体にまたがるこの古墳群は、同一の豪族または首長層による連続的な墓域形成を示す例と考えられ、北陸地方の古墳時代初期を理解する上での重要な手がかりとなっている。この4号墳を起点とするように、江沼地域ではその後、墳丘規模が拡大し、副葬品の内容も豊富になっていく中期古墳が各地で築かれるようになる。5世紀に入ると、吸坂古墳群や南郷八幡神社古墳群、狐山古墳など、前方後円墳形式の大規模古墳が造営され、鉄製武器、銅鏡、銀製帯金具といった威信財が副葬されるようになる。こうした流れは、小菅波4号墳のような初期古墳が築いた基盤の上に成り立っており、加賀地方における政治的な首長層の成長過程を段階的に追うことができる。特筆すべきは、小菅波4号墳においてはすでに墳丘上での祭祀が行われ、その形式が後の古墳祭祀の原型の一端をなしていたことである。このことは、土器の配置状況や土坑の構造からも確認され、古墳の機能が単なる埋葬だけでなく、祖霊との接点や権威の顕示の場としても用いられていたことを示している。現在、小菅波4号墳そのものは史跡指定を受けていないが、発掘後に記録がまとめられ、周辺の古墳とともに教育資料や地域学習の題材として活用されている。墳丘は原状のまま残されているわけではないが、白山台地区の開発に伴い、古墳公園や案内板の整備が進められ、地域の歴史を知る手がかりとしての価値を保っている。このように、小菅波4号墳は規模こそ控えめであるが、北陸における古墳時代の幕開けを象徴する史跡として重要である。土器・鉄器・装身具といった出土遺物により、当時の葬送儀礼や社会構造をうかがい知ることができ、また複数の支群からなる古墳群の中心として、一族墓制の萌芽を示す資料でもある。北陸の古墳文化がどのように形成され、展開していったかを知る上で、避けて通れない地点といえる。