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江戸時代の中期までに、西条村は「間の宿」になったと見られます。間の宿とは、街道における正規の宿場ではなく、街道沿いを旅する人びとや運送業者が宿場と宿場との中間の休泊場所や中継点として頻繁に利用するようになった集落です。西条は松本藩領だったので、幕府の道中奉行による統制や規制がさほど強くおよばない村落だったので、松本藩としての物流や経済活動、財政事情によって、西条を宿場街に準ずる扱いをするようになったようです。正規の宿場ではないので、本陣や脇本陣、問屋などは指定されませんでしたが、茶屋などの休泊施設や街道貨客輸送の継立ての仕事を請け負う商家が成長してきました。たとえば青柳宿のような正規の宿場にとっては、規制が緩い有利な地位をもつ競争相手の台頭ということになるので、松本藩などに対して規制の強化や取り締まりを求める訴願をなどもおこないましたが、成功しませんでした。松本藩は、非正規の休泊施設や輸送業者から運上金を受け取っていたからのようです。茶屋本陣は、そういう非正規の休泊業者でありながら、多額の運上金と引き換えに飲食や宿泊など街道サーヴィスを提供していました。