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現在は農地となっているが、この辺りに高橋城があった。「小太郎の墓」と呼ばれる五輪塔がわずかに往時を偲ばせる。高橋氏は信州に領地をもち、木曽義仲に従う武将であったが、義仲滅亡後常陸に移り、やがて宇都宮氏の家臣となった。南北朝時代の観応2(1351)年、北朝方は足利尊氏派と弟の直義派に分裂、宇都宮公綱は尊氏軍に加わって軍功をあげ、恩賞に浴した。これに従った高橋義通も萩田郷1270貫文を領知、5年後の延文元(1356)年に築城、萩田郷を高橋郷と改称したという。高橋氏は南北朝時代から戦国時代にかけて宇都宮の家臣として幾多の合戦に参陣したが、慶長2(1597)年、主家宇都宮氏の改易と共に没落、高橋城も廃された。今に残る城の絵図の中ほどに五輪塔が描かれている。「子太郎石塔 梅林院正居士 十七歳ニテせいきょ 太閤様ヨリ三拾四石余御付被遣候」系図によると「梅林院正居士」は17歳で戦死した義途である。墓塔の供養料として豊臣秀吉から34石の免田(非課税の土地)を与えられたことがわかる。その土地を「小太郎内」と呼んだ。五行川に架かる橋にその名が残っている。