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| 名前 |
辰巳用水 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
|
辰巳用水(たつみようすい)は、江戸時代初期、寛永9年(1632年)に完成した金沢を代表する用水路だ。造られたのは加賀藩三代藩主・前田利常の時代で、城下町金沢の防火・給水を目的に開削された。当時、城下町は度重なる大火に見舞われていて、その防止策として藩が直営で大規模な導水工事に取り組んだわけだ。辰巳用水の工事を任されたのは、小松の町人だった板屋兵四郎という人物だ。彼は現在の犀川(さいがわ)上流部に取水口を設け、兼六園まで11キロに及ぶ水路を敷設した。そのうち約4キロが山を貫くトンネル(隧道)だったが、これを重機もない時代に人力だけで掘り抜いたというのは驚きだ。特に辰巳用水の名を知らしめているのは、兼六園内の霞ヶ池から城内の二の丸まで水を送る際に利用した伏越(ふせこし)という仕組みだ。これは、今で言う「逆サイフォン方式」で、低い場所の水を高い場所へと揚げる高度な技術だった。江戸初期にこのような複雑で緻密な設計が実現されたことは、当時の加賀藩の土木技術がいかに進んでいたかを証明する。辰巳用水の面白さは、単なる防火用水にとどまらないところだ。造られた当初から城下の飲料水確保を兼ねていたが、次第に城下近郊の農地を潤す灌漑用水としての性格も強めていった。明治期には、この用水を利用して灌漑していた水田の面積が100ヘクタールを超えた記録もあるほどで、まさに地域を潤す命の水路だった。さらにこの用水路には、伝承や逸話も残されている。工事を指揮した板屋兵四郎は、完成からほどなく亡くなったが、後世には彼の偉業が神格化され、現在では八幡板屋神社に祀られている。境内には、実際に辰巳用水に使われた石製の導水管が奉納されており、用水建設当時の技術を現代に伝えている。もともとは木管だったものを耐久性向上のため石管に改良したことも、加賀藩が用水路をいかに重視していたかを物語る逸話の一つだ。辰巳用水が現代にまで重要視されるのは、その高度な技術と耐久性だけではない。用水路沿いには、当時の土木技術を示す遺構が今なお点在している。中でも、辰巳町付近に現存する「三段石垣」は、全長約260メートルにも及び、石垣が三段にわたって積み上げられた壮大なものだ。発掘調査によれば、地下にはさらに4段の石垣が埋没していて、当時の人々がいかに精巧な技術を駆使して水路を維持していたかが分かる。また、現在も兼六園霞ヶ池への給水源として機能しており、城下町金沢の景観や防火に役立っているという点も見逃せない。完成から400年近く経つ今でも、現役の用水として稼働している遺構は日本中を探してもそう多くないだろう。その歴史的・技術的な価値が評価され、辰巳用水は2010年に国史跡に指定されている。さらに2018年には土木学会選奨土木遺産にも認定され、江戸時代の土木遺産の中でも全国的な注目を浴びることとなった。用水に沿って整備された「辰巳用水遊歩道」は、歴史に興味のある人のみならず、地域の人々にとって散策の場として親しまれている。城下町金沢の風情ある町並みや兼六園の景観に溶け込みつつ、辰巳用水は今でも市民の暮らしを支える役割を担っている。完成まで、わずか1年という短期間でこれほど高度な土木事業を実現したことを考えると、その価値は一層引き立つ。この用水路は単なる遺産ではなく、現代まで受け継がれてきた人々の営みや技術力を物語る、金沢の誇りそのものだ。もし辰巳用水を歩く機会があれば、目の前を流れる水に約400年分の歴史と技術が凝縮されていることを感じ取れるに違いないだろう。