静かな神社で触れる 奈良時代の歴史。
橘神社の特徴
敏達天皇の玄孫である祭神が祀られています。
二軒茶屋餅の近くに位置し、アクセスが良好です。
国道沿いでありながら、静かな環境が魅力です。
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二軒茶屋餅に近く国道沿いに有りながらとても静かな神社でした!中は広く荘厳としていて気持ち良く拝観させていただきました。
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| 名前 |
橘神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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祭神の橘諸兄は敏達天皇(538〜585)の玄孫で、奈良時代の皇族・公卿です。初名は葛城王で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となりました。天平9年(737年)4月から8月にかけて、天然痘の流行によって右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟らが次々と死去し、9月には出仕できる主たる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみで、そこで急遽、橘諸兄は次期大臣の資格を有する大納言に、翌年には右大臣に任命され、太政官の中心的存在となりました。以後、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄昉の協力を得て、橘諸兄が国政を担当して聖武天皇を補佐することになりました。天平12年(740年)、藤原政権回復を企図したと考えられる藤原広嗣が橘諸兄政権を批判し、翌月に九州で兵を動かして反乱を起こしました。騒乱の間に天皇は伊勢に行幸され、藤原広嗣の乱平定後、天皇は平城京に戻らず、橘諸兄の本拠地(山城国)にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われました。天平感宝元年(749年)4月に正一位に昇りつめました。(生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人で、そのうち、2人は天皇の生母・外祖母で、最後に生前叙位された三条実美は身罷る直前だったため、純粋に官職を昇りつめて正一位の状態で政務にあたったのは藤原仲麻呂・藤原永手と橘諸兄の史上3人に限られます。)しかし、同年8月に孝謙天皇が即位すると、光明皇后の威光を背景に藤原仲麻呂の発言力が増しました。天平勝宝7年(755年) 11月の聖武上皇が病気で伏していた際、橘諸兄が酒の席で上皇について不敬の発言があり謀反の気配があるという讒言を受けました。聖武上皇はこれにら取り合わなかったようですが、このことを知った橘諸兄はこのことを知り、翌年2月に辞職をしました。天平勝宝9年(757年)1月6日薨去。享年74。ちなみに、天平9年(737年)に発生した天然痘では日本人の25-50%が亡くなり、聖武天皇が後の奈良の大仏建立の所以となったといわれています。聖武天皇と光明皇后の当面の政治的課題は疫病で損なわれた国力の回復でした。そのため、光明の異父兄であり、藤原不比等の娘を妻として藤原氏とも親和的な皇族の橘諸兄を国政の長に据えて皇族・貴族が一体となった挙国一致の政治体制をとりました。聖武天皇と諸兄の関係は非常に親密で、良好な関係だったといいます。橘諸兄政権は、国力の回復のために地方行政の簡素化を行ない、同時に、東国農民の負担軽減を目的として防人を廃止、民の負担軽減のため諸国の兵士・健児を停止しました。これらの兵士は当時軍事的緊張下にあった新羅に備えたものでした。更に天平15年(743年)には農民人口の減少で荒廃した土地の再開発を促すべく墾田永年私財法を発布しました。孝謙天皇が即位した天平勝宝元年(749年)に光明皇后が皇太后になったことに際し、藤原仲麻呂は軍事を司る紫微中台の長官に就任して橘諸兄と並ぶ権力を手に入れました。諸兄政権時代は「現実容認的な方針」で運営されていたが、天平勝宝4年(752年)頃には政治の実権が藤原仲麻呂に移行しました。同年の大仏開眼には橘諸兄も参加しましたが、以後は隠居状態となったと考えられています。