金沢駅近くの中橋陸橋跡で歴史散策!
名前 |
中橋陸橋の跡 |
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ジャンル |
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住所 |
〒920-0856 石川県金沢市昭和町10−9 鞍月用水せせらぎ広場 |
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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評価 |
4.0 |
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金沢駅の近くにひっそりと残る史跡、中橋陸橋(なかばしりっきょう)の跡。今じゃ何気なく通り過ぎてしまうような小さな公園の一角だが、実はここには昭和の金沢の交通インフラ整備の歴史がぎっしり詰まっている。この中橋陸橋が完成したのは昭和34年(1959年)の春ごろ。当時の金沢はまだ鉄道が地上を走っていて、街の中心部と港町・金石方面を結ぶ主要道路(いわゆる金石街道)は、その鉄道線路と交差する踏切(中橋踏切)のせいで渋滞が常態化してたそうだ。そこで渋滞解消の切り札として誕生したのが、この中橋陸橋だ。全長約282メートル、幅9.2メートル、最高地点で地表面から6.5メートルの高さを持ち、当時としては最先端の立体交差だったという。特徴的なのは、この陸橋が完全に車専用だったこと。歩行者や自転車は車と分けられ、地下道(幅4メートル)を通っていた。だから安全性も高まったし、何より鉄道を気にせずスムーズに車が流れる光景は市民にとって新鮮だったに違いない。当時の人々から見れば、この陸橋はまさに「金沢の近代化」を象徴するランドマークだったろうな。それに、この中橋陸橋は映画にも登場している。昭和53年(1978年)に公開された高倉健主演の映画、野性の証明のワンシーンで、暴走族がヒロインを襲う場面のロケ地としてこの地下道が使われた。映画の舞台としての知名度もあったというのが面白い。当時を知る人にとっては、映画を観てすぐ「あ、あそこだ!」とわかるほど、地元ではちょっとした有名スポットだった。また、この陸橋は単なる道路橋以上に重要な歴史的意味を持っている。当時の北陸本線と並行して、近くには北陸鉄道金石線の中橋駅が存在していた。1920年(大正9年)に開業し、1971年(昭和46年)に廃止されたこの鉄道路線と陸橋の歴史は深く絡み合っている。都市の発展と共に交通インフラが変化する、その象徴的な場所だった。しかし、陸橋も時代と共に次第に渋滞が再発し、交通量の増加に耐えきれなくなってきた。そこへ平成に入る前後に金沢駅周辺の鉄道の高架化という大規模な再整備計画が始まり、この陸橋もまた、その流れの中で撤去される運命を辿ることになる。平成2年(1990年)頃には完全に姿を消したが、その翌年には陸橋があったことを示す「中橋陸橋の跡」という石碑と、橋の親柱の一部が小さな記念公園内に保存され、今に至っている。記念碑には当時の経緯や功績が刻まれ、親柱のコンクリート片には当時の橋名板も残されている。そして陸橋の跡地周辺には、鞍月用水(くらつきようすい)が流れている。この用水路は藩政期から城下町を潤した重要な用水で、明治から昭和初期にかけて製糸や製粉の動力にも使われていた歴史ある水路だ。近年では景観を活かした街づくりが進み、鞍月用水せせらぎ広場として散策できるよう整備されている。地域の人々の憩いの場として再生されているのがまたいいところだ。さらに付近には「折違町」(すじかいまち)という地名があるが、これは鞍月用水にかかっていた「筋違橋」という斜めに架けられた橋に由来するといった歴史的な豆知識もある。何気ない町名ひとつにも、実は古い歴史が刻まれているのが金沢の面白さだ。かつての中橋駅跡地は今や道路拡幅や再開発でほぼ痕跡を失ってしまったが、その代わり現在でも「中橋」というバス停名が残り、鉄道時代の名残をひっそりと残している。さらに陸橋撤去後に新設された道路は「中橋高架下交差点」という名前を持ち、地名としても歴史を引き継いでいる。こうやって振り返ると、中橋陸橋という存在はただの道路インフラじゃなく、金沢が昭和から平成へと大きく変化する姿を映し出す「歴史の証人」だったんだと実感する。今や物理的な姿は消えてしまったが、その歴史的価値は石碑や親柱という形で静かに伝えられている。小さな史跡だけれど、交通インフラの発展史、映画ロケ地、地域の都市計画の歴史までが詰まっている、見どころあるスポットだ。金沢駅周辺に来たら、ちょっと足を止めてその歴史を感じてみるのも悪くないと思う。