相川のシンボル、時鐘楼の響き。
時鐘楼の特徴
江戸時代から町を見守る歴史的な鐘楼です。
佐渡奉行所跡からも近い観光スポットです。
相川のシンボルとして地元に親しまれています。
佐渡市相川にある時鐘楼(じしょうろう)は、江戸時代から町に時を告げ続けてきた歴史ある鐘楼だ。地元の人は昔から「時の鐘」と呼び、今も朝夕にその鐘の音が響いている。国の史跡「佐渡金銀山遺跡」の一部として保護されており、2024年には世界遺産にも登録されて注目を集めている。江戸時代初期の相川は佐渡金山の採掘で大いに賑わった町だ。慶長年間(16世紀末〜17世紀初め)に金銀鉱山が本格化し、幕府は相川に奉行所を置いて直接統治した。町は金山労働者や職人で活気に満ち、時の管理が非常に重要になったという。そこで奉行所では宝永7年(1709年)頃から太鼓を叩いて時報を出し始めたが、町が広がるにつれて太鼓では音が遠くに届かなくなり、鐘による時報が求められた。正徳2年(1712年)、時の佐渡奉行・荻原重秀が命じて、佐渡産の銅を使った鐘を造らせた。もともとは広伝寺という寺の境内に鐘楼が置かれたが、肝心の奉行所の奥の部屋まで鐘の音が届かないという苦情があり、間もなく現在の場所に近い味噌屋町の高台に移された。その直後、鐘に亀裂が入ってしまい、翌年に越後高田から鋳物師の土肥藤右衛門が相川にやってきて鐘を鋳造し直した。この新たな鐘は非常に良質で音色が良く、「佐渡の誇り」と町民にも喜ばれたという。ところが天保5年(1834年)、相川を襲った大火で鐘楼が焼け落ちてしまった。しかし、時の鐘は町の人々の生活に欠かせないため、翌天保6年(1835年)には早くも再建され、さらに万延元年(1860年)には改築も行われて現在に至っている。明治5年(1872年)の新暦採用で一時鐘を鳴らす習慣が中断したものの、近年は地元有志によって朝夕2回、再び鐘が撞かれるようになった。鐘を撞くのはボランティアで組織された地元保存会の人々だという。相川の町には、この鐘にまつわる伝承も残っている。「鐘叩き石(かねたたきいし)」と呼ばれる石がかつて奉行所近くにあり、鐘がない時代にはその石を叩いて時を知らせていたというのだ。佐渡金山で働く人々が毎朝石を叩く音を合図に坑道へ向かったとも言われ、佐渡の金山町らしい逸話として興味深い。周辺にも歴史を伝える史跡が数多くある。時鐘楼のすぐそばには佐渡奉行所跡が復元整備されており、当時の奉行所機能や鉱山の運営方法などを詳しく展示している。そのすぐ下の京町通りには、江戸時代の繁華街の名残りを感じさせる町家の古い建物が残っており、平成27年(2015年)には「佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観」として国から重要文化的景観に選定された。また、この京町通りでは毎年6月上旬に「宵乃舞」という盆踊りの祭りが開催される。夕暮れ時に響く時鐘楼の鐘の音が祭りの情緒を一層引き立てているそうだ。また、奉行所跡のそばにある煉瓦塀の建物は、明治21年に建てられた旧相川裁判所で、現在は「佐渡版画村美術館」になっている。明治の洋風建築が鐘楼や奉行所の和風建築と調和して並び、江戸から明治にかけての歴史の流れが見て取れる。さらに町を見下ろす高台には、明治時代の建物を活用した「相川郷土博物館」もある。ここでは鐘楼に関する貴重な古写真や時報制度に使われた資料などが収蔵されていて、より詳しく相川の歴史を知ることができる。現在、佐渡金銀山遺跡はユネスコ世界文化遺産に登録され、世界的な注目も浴びている。そうした中で、時鐘楼はただ鐘の音を響かせるだけでなく、佐渡金山とともに生きた人々の歴史や文化を今に伝える象徴的な存在となっている。早朝や夕暮れ時、この鐘楼の周りに立つと、江戸時代から受け継がれてきた時の音が、静かな相川の町並みにゆっくりと染み渡っていくのが感じられる。200年以上も前の歴史を背負った鐘の音を聞きながら、佐渡金山で栄えたかつての相川に想いを馳せるのも、贅沢な時間の過ごし方だろう。
佐渡奉行所跡から徒歩すぐ。古き町並みの中に佇んでいます。
相川のシンボル的時鐘です。6月開催の[宵乃舞]の📷️スポットです。向かいから観る海岸景色も素敵です。
| 名前 |
時鐘楼 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0259-63-3111 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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金山で栄えた相川の京町入り口、奉行所跡のすぐ近くにある時鐘楼です。