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荒沢ダムの建設により、この地に遷座したものと思われる。前の旧地は今は川底にある。この新山神社は明治9年までは「深山神社」と書いていたという。別称で「川中島の明神」といわれていたとあり、大水の時に、このお宮を中島にして、大鳥川が前後でながれていた事がゆえんであるらしい。現在は「新山神社」が産土(うぶすな)の神であるが、以前は上宮に祀られていた山の神がうぶすな様であったが、其の変化の経緯は残っていない。旧社地にあったころの話として、「新山神社の境内(神社に向かって右側)に小さい祠があって、その中に「開村人_伊藤五郎左エ門霊位」としるした石碑が立っている。碑の横には「明治7甲戌歳8月24日」と記されてあり、250年祭執行の時に立てた碑である旨が記されている。この碑は五郎左エ門家の墓地に、仏名できざまれてあったのを、明治7年250年祭にあたる年に、前記のようにきざみ改めて、この地に移したものである、」とあるが、現在はどうなのであろうか。❶【参考 荒沢の民俗 1956年】新山神社(1956年の書による)[祭神]素戔嗚命(すさのおのみこと・防疫の神)大山祇命(おおやまつまのかみ・丘陵の守護神)大国主命(おおくにぬしのみこと・縁結びの神)事代主命(ことしろぬしのみこと・宣託の神)木花咲耶姫命(このはなさくやひめ・安産、子宝の神)※現在は稲荷、薬師、八幡の諸神が合祀されているとある。その他、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと・農耕の神)もまつられている、とある。・創立年月は不詳である・もとは 素戔嗚命の1柱であったが、合祀され祭神がふえた、とある。[神社の由来書によると]・神社の由来書によると「奥州の北畠顕家卿、新田義貞公御同性組合って足利尊氏を攻落す、其の後武蔵の住人、越生四郎左衛門尉というものに攻められて、北畠落城す、その際、北畠殿の家臣(姓名欠く)出羽の最上に隠れ居たるに足利方の詮議厳重にして、この地にも又居住し難く、当荒沢村に逃れ来り、その姓名 菅原太郎兵衛 と改め、私に祠を建立して祭祀せしは是、すなわちこの新山神社なり」とある。・神社の云い伝えによると「興国正平(1346年~1370年)、又は興国6甲申年(※2)ともいう」の頃、高祖_太郎兵衛が小祠を造り、素戔嗚命を祭りて国家の興隆、将た(※1)わが身の復興を祈りし今の新山神社の創始なり、という・将た(※1)・・敵を欺くために、自らを貶めて行うはかりごと・興国6甲申年(※2)・・興国6年は1345年であるり乙酉である。甲申であれば興国5年であり、1344年~1355年と考えることが出来る。[鎮座地] 荒沢村字宮の下[境内] 236坪[棟札] 天保14年(1844年)7月 新山大明神再建[額] 文久2年(1862年)7月羽黒山_別当_70翁_澄海僧_正書。