歴史感じる塚の地、ぜひ訪れたい!
| 名前 |
境塚跡 |
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| ジャンル |
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| HP |
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/cultural-property/150595 |
| 評価 |
2.0 |
| 住所 |
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登米伊達家と涌谷伊達家の領地の境界を示す塚がかつてここにありました。江戸時代から明治にかけて、何度も繰り広げられたこの領地争い。中でもいちばん有名なのは、寛文5(1665)年に起こった伊達宗倫と伊達宗重との間の谷地論争で、伊達騒動(寛文騒動)のきっかけにもなりました。ここの塚は、元禄11(1698)年に境界争いが再燃した際に、めでたく?境界が確定したので造成されました。約100m間隔で64基築かれた境塚の内の一つが本史跡です。これで一件落着と思いきやそうでもなく、特に約200年後の明治初年からは毎年 萱刈りの時期になると必ず境界争いが起こったとか。こちらの方は明治20(1887)年に解決し、約220年越しにこの地に平和が訪れました。(参考:『豊里町史』)米余りの現代には考え難い争いではありますが、近世はそれだけ土地の生産性が重要だったということなのでしょう。現代でも論破ブームとか、水域や地下資源などを巡る争いなどが絶えないことを考えれば、あまり人類は進歩していないようにも思えます。