周辺のオススメ
スポンサードリンク
スポンサードリンク
重衡卿の墓所のある木津川市安福寺を参拝してから、当寺を訪問しました。奈良街道沿いには源平合戦に関わる史跡が多く、訪れる度に勉強になります。《解説看板》平重衡供養塔平清盛の五男。三位の中将。治承四年(1181) 五月、「以仁王の乱」を平定した後、十二月十一日には滋賀園城寺を焼討し、同月二十五目に大軍を率いて南都へ向かう。興福寺衆徒は奈良坂般若寺に堀を掘り、垣楯、逆茂木を廻らせ迎え撃った。二十八日、平家勢四万、南都勢七千が般若寺の地で戦い、夜分に入り総大将重衡が般若寺の門前に立って、「夜戦になって、暗さもくらし、さらば火を出だせ」と明かりを採るため人家に火を放てと命じたのだが、折からの師走の北風にあおられた炎は般若寺を焼き、東大寺興福寺など南都の大伽藍を焼き尽くした。後日、平氏は「一の谷」で源氏に敗れ、重衡は「須磨」で囚われの身になり鎌倉へ送られた。しかし、南都を焼いた張本人として重衡を恨んでいた南都の大衆は身柄を引き取り、木津川の河原で処刑、その首を持ち帰り般若寺の門前に晒したという。かつて般若寺の東の山裾に「重衡の首塚」と伝える塚があったが今では不明。墓と伝えるものは京都伏見区日野や木津川市安福寺、高野山などにある。武勇に優れた重衡は、また「なまめかしくきよらか」と評判で、宮廷の女房方に人気のある平家の公達であった。