雷電神社で古墳丘陵を楽しもう!
雷電神社の特徴
旧村社ならではの立派な舞台が印象的です。
美里町中里に位置する歴史ある神社です。
地元の人々に愛される伝統的な社の雰囲気があります。
坂上田村麻呂が東征の際に雷雨が起り立ち寄ったのが起源とされる神社。熊谷直実・猪俣氏の史跡巡りで偶然見つけたのでやや探訪は難しい部分は有りますが地形は平坦。
旧村社。御祭神:大雷神(おおいかづち)。創建:年代不詳(鎌倉時代以前)。ここ美里町大字中里にある当社は、旧鎌倉街道上道に面していて(当社の西側)、現在の国道254号線に架かる天神橋を中心に三角形を形作る位置にある、当社、甘粕神社(甘粕)、東大澤神社(猪俣)の三社は、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷神を祀ったのが始まりと伝えられている、雷電三社と言われているそうです。明治初年に中里村の村社に列格、明治41年に旧中里村にあった諸社を当社の境内に遷座しているそうです。創建年代は不詳とありますが、軍神として信仰の対象となっている、坂上田村麻呂将軍伝承から想定すれば、地方豪族の草創期として平安時代から鎌倉時代を想定してみたいところです。社殿の外壁も痛みが深刻で、資料にあるように寛政七年(1795年)以前の建立であれば、修復の必要が迫っているように思われます。中里地区は、松久丘陵の北部に位置する丘陵上の村で、南の白石地区との境を中世の鎌倉街道上道が通っていて、元は甘粕村と共に一村であったそうです。当社の東側の参道は、交通量の激しい国道254号線の傍が入り口で分かりづらいですが、西側の旧鎌倉街道上道の通称・雷坂を上がると、みさと保育園裏手の駐車場の反対側から境内へ入ることが出来ます。この辺りは「雷電神社裏古墳」と呼ばれている古墳丘陵で、社殿は丘陵の上に鎮座しています。古墳は旧鎌倉街道上道を東西に横切る切通しの道に分断されていて、当社の北の浅間大神の塚のあたりまでになっています。規模は径10m、高2mの円墳(横穴式石室)で築造6~7世紀だそうです。
立派な舞台が有る社ですね。
旧村社格。甘糟・東大澤とで雷電三社。
名前 |
雷電神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.1 |
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雷電神社の社殿が石垣の上、一段高い位置にあり、丘陵地であり、この辺りは「雷電神社裏古墳」と呼ばれている古墳丘陵で、社殿は丘陵の上に鎮座している。古墳は旧鎌倉街道上道を東西に横切る道に分かれていて、中里雷電神社の北側の浅間大神の塚のあたりまでになっているとの事。規模は径10m、高2mの円墳(横穴式石室)で推定築造6世紀半~7世紀代と言われている。神社の由緒は、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷神三社を祀ったのが始まりと伝えられる。猪俣、甘粕の地にも雷電社が祀られ、当社を含めこの三社を雷電三社と称する。雷電三社は国道二五四線に架かる天神橋を中心に三角形を形成する。当社西側には中世の鎌倉街道上道が通り、当地ではこの通りの坂を雷坂と呼んでいる。 春日造りの本殿は、地元の大工である岡田伊右衛門が建てたもので、この伊右衛門が寛政七年(一七九五)に児玉町秋山の十二天社を造った時の「建立覚書」に当社の本殿と同じ造りにする旨が記されていることから、当社はそれ以前に建てられたものであることがわかる。 また『風土記稿』中里村の項では「愛宕社は村の鎮守なり、満正寺持ちは諏訪社、雷電社、天神社、村民持ちは稲荷社」とあるように、江戸期には愛宕社が村の鎮守であったが、明治元年の社格制定に際しては当社が中里村の村社とされた。更に愛宕社も含め当社以外の神社はいずれも小規模であったため、明治四十一年に政府の合祀政策に従ってこれらの諸社は当社の境内に移された。案内板より引用。