金窪城址で古の歴史を感じる。
金窪城跡の特徴
金窪城は新田義貞や北条氏邦と深い関わりがあります。
歴史施設として、金窪城址公園が地域のやすらぎの場になっています。
石碑塚や説明板があり、古の歴史を感じられるスポットです。
神流川古戦場が近くにある、上里町金久保地区にあり、現在、城址のほとんどが姿を消していますが、金窪城址を示す石碑塚と、金窪城址公園が残っています。資料によると、平安末期の治承年間(1177-80)に武蔵七党の一党である丹党からでた加治家季の築城と言われています。元弘年間(1331-3)には新田義貞が改修して、家臣の畑時能に守らせたそうです。大永の頃(1521-27)には斎藤実盛の末裔を称する斎藤盛光が居城した。盛光の曾孫にあたる定利の時、天正10年6月(1582)本能寺の変が起こり、織田信長が死亡すると、織田氏と敵対していた北条氏は上州に大群を率いて進行し、織田氏重臣・滝川一益との間で神流川の合戦が起こり、北条側に属していた斎藤氏は一族ことごとく討ち死にし、城も兵火にかかり焼失した。その後、徳川家康の関東入国にともない、この地は川窪氏の所領となり陣屋が置かれたというが、元禄1年(1698)丹波への転封にとなり、陣屋も廃されたという。とあります。
土塁の跡が3・4箇所有るらしいが良くわからん。ネット検索して確認したら金窪城跡の碑の所らしい。だがネットで見たのが少し古いのか?また一段と画像よりも綺麗に整備されてるので分かりづらい。だが、公園としては立派で綺麗だと思う。ただ駐車場の出入口スペースが俺のNISSANキャラバンだと出入りするのには若干狭い。
「史跡 金窪館址」という石碑と金窪城の説明板があるだけです。
古の歴史を忍べます。
滝川一益が攻めたという城 もう少し土塁等の遺構を残して欲しかった…
金窪城跡に来てみたが、土塁等は見つからず ただの公園🎄となっている様です。金窪城跡の一角に良く解る説明版がありました。只、せめてトイレ🚻位有れば良いかと(ーдー)
天正10年(1582年)手勢2500騎を従えた北条氏邦は、この金窪城に到着しました。その頃、城主の民部定利は小田原の北条氏政のもとへ人質として送られ、城は叔父の斎藤重左衛門光透と弟の光房、光吉が守っていました。神流川を挟んで対岸には、滝川一益が上州の武将達を率いて陣を敷いていました。北条氏邦は鉢形城主でしたが、小田原城から発した北条の本隊が到着する前に、滝川軍を打ち破ってやろうと考え、翌朝には僅かな兵を城へ残して出撃。滝川軍と激突しました。これに対し、滝川軍は得意の鉄砲を200丁揃え、これに倉賀野の金井淡路守の100丁を加え、破竹の勢いで金窪城まで進撃。牧野伝蔵の指揮する一隊は城内深く侵入して、各所に火を放ち、金井城は落城。斎藤光透をはじめ、多くの城兵が討ち死にしました。のちに、北条氏政率いる本隊が小田原より到着し、滝川軍は圧倒的な兵力の差の前に敗退しますが、この城は世にいう神流川合戦の激戦地として、いまも語り伝えられています(^_^ゞ
歴史施設、地域のやすらぎの場。
ここ金久保地区は金窪とも書き、金窪城は新田義貞側近、畑時能の居城で、戦国時代には小田原北条氏の勢力の北限の守りとして、徳川氏の支配下に入るまで、北条氏邦の臣の斎藤氏の居城となっていました。
名前 |
金窪城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0495-35-1232 |
住所 |
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HP |
http://www.town.kamisato.saitama.jp/item/1919.htm#itemid1919 |
評価 |
3.4 |
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治承年間(1177年〜1181年)加治家李による築城とも元弘年間(1331年〜1334年)新田義貞による築城とも伝えられている。 本能寺の変の後、小田原北条氏は上野国に侵攻、滝川一益はこれを神流川に迎え撃ったが大敗を喫した。住宅街の中に小さな金窪城址公園があり、その向かいに石碑と案内板が設置されており、その背後には土塁跡が見えます。