古墳時代を感じる宝塔山。
宝塔山古墳の特徴
宝塔山古墳は国指定の歴史的な方墳で、墳丘全長66mの圧巻の造形です。
7世紀半ばに造られた史跡の中で、良好な状態の石室が見学できます。
古墳の上には歴代の領主の墓所があり、文化的な価値が高い場所です。
古墳の上が秋元氏歴代の墓地になってます。南側から石室に入れます。石の大きさにびっくりしました。
古墳の詳しい説明は、先達の方々の口コミにお任せします。どっしりとした石組みの石室は、内部にも入る事が出来、一見の価値は有ります。古墳時代後期の方墳で、石室は恐らく盗掘されており、出土した副葬品等は無い様です。
宝塔山古墳は墳丘全長60mの大型方墳で、7世紀半ばに造られたと考えられます。墳丘は三段築成、斜面には葺石が葺かれ、石室は羨道・前室・玄室からなり、それぞれの入口には門柱上の施設がもうけられています。石室は、前代の愛宕山古墳までの自然石を積み上げる石室の造り方から、きれいに加工された切石を巧みに積み上げる「截石切組積」という手法が採用されています。愛宕山古墳の家形石棺同様非常に精巧な造りの石棺で、底面付近には装飾として格狭間が刳り込まれています。 個別に国指定史跡に指定されていましたが、令和5年10月20日、新たに追加された複数の古墳と統合し、「総社古墳群」として新たに国指定史跡になりました。
総社古墳群を構成する古墳の1つです。国の史跡に指定されています。群馬県中部、榛名山東南麓・利根川西岸の前橋台地上に築造された大型方墳です。東には蛇穴山古墳が隣接しています。1968年(昭和43年)以降、発掘調査が実施されました。 古墳は、一辺66m、高さ12mです。墳丘外表には葺石が認められますが、埴輪はありませんでした。墳丘周囲には幅18mの周濠が巡らされています。周濠を含めた古墳全体としては一辺102mの巨大方墳です。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南西方向に開口しています。切り石による整美な大型石室です。玄室・前室・羨道・前庭部からなる複室構造で、玄室中央には刳抜式家形石棺が据えられています。古くから開口したと見られるため、石室内の副葬品はありません。この古墳は、古墳時代終末期の7世紀中頃に築造されたものと考えられています。前橋市総社歴史資料館に関連の展示がありますのでお立ち寄りをお勧めします。
宝塔山古墳。方墳。両袖式横穴式石室を持つ。石室は正面の階段ではなく、裏に周り、そこにある階段から登る。
宝塔山古墳は国指定史跡で、墳丘全長66m、墳丘高12m、石室全長12.04m、周堀があったそうです。石室は切石を巧みに積み上げた立派な造りです。石棺も「くり抜式家形石棺」が立派なものです。宝塔山古墳の上には秋元氏の歴代の墓所があります。また古墳の中腹には隣の光誉寺の歴代の僧正の墓所もあります。
良い状態の石室を見学できる。墳頂には、近世史を学べる秋元氏墓所。
7世紀半ばに造られた方墳。国指定史跡とある正面側からは頂上にある秋元氏代々の墓所に行く事は出来るが石室には行くことができない。石室にはぐるっと回って光厳寺の横にある石段を登って行く。石室は、非常に状態が良く、きれいに加工された切石を巧みに積み上げて造られている。主室の中には精巧な家形石棺がある。(中の遺物は散逸してしまったらしい)隣の前橋市総社歴史資料館に宝塔山古墳の石室や、石棺の様子を復元したジオラマがある。
国指定史跡、古墳時代末期の方墳です。全長66mと、方墳にしては大型です。古墳の4番バッターである前方後円墳よりはコンパクトですが、石室は接合面がきれいに処理されており、技術力は高度化しています。古墳時代末期ともなると、仏教も来伝されてきて、コミュニティが急速に高度化。国家としての組織・体裁が整いつつあり、政治の役割が増大してきた頃です。地域の支配者だからって無邪気に何百メートルもあるような巨大な前方後円墳なんか作ってる場合じゃないのでしょうね。
| 名前 |
宝塔山古墳 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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国指定史跡の大型方墳です。開口部の保存も良く、切石が綺麗に組み合わされています。相当の技術が必要と思われますが、なんでこんなにも綺麗に仕立てられるのでしょうか?