甘楽町の神秘、赤城神社へ。
赤城神社の特徴
雑木林に囲まれた神社で、御神木の杉木がそびえ立っています。
甘楽町小幡の田畑の真ん中に位置する歴史ある村社です。
創建は人皇十七代履中天皇の時代と伝えられる由緒正しい神社です。
甘楽町小幡、畑に囲まれた雑木林の中に、御神木の杉木がそびえ立ちます。鳥居をくぐり抜け参道を進むと、赤い屋根の社殿が、華やかさはないが、その佇まいは素朴で、古くよりこの地の人々より深い信仰を集められて来た、そんな風情が残ります。
甘楽町の村社である「赤城神社」は旧城下町からは離れた田畑の真ん中にポツンと位置しています。しかし創建は400年頃に遡ると言う大変に古い歴史を持った神社のようです。かつては甘楽小幡地区の領主だった小幡氏の祈願所となり、歴代の領主にも庇護されたとの事ですが、今はひっそりとしていて繁栄を伺う事は出来ません。但し境内には多数の摂社も点在しており神社の深い歴史を知る事も出来ますので観光スポットでは無い神社ですがイイ感じのひなびた味わいです。
御祭神 豊城入彦命(正一位の允許勅書あり)由緒本社の創建は人皇十七代履中天皇(420年頃)の時代と伝えられています。鏑川以南の総社で、代々小幡氏、織田氏、松平氏の祈願祭祀を行ってきました。(甘楽町デジタルアーカイブより)伝説によれば、豊城入彦命が東国御巡征の時、この地に御滞在されたといいます。人民を撫順し、農業・養蚕を広められたので、住民が尊の霊を祀って追慕敬拝したものといいます。そのため、古来、総社の号を持ち、鏑川以南の総鎮守の資格がありました。庭屋村・高瀬村・神成村等にある赤城神社は、すべて当社から分霊勧請したものといいます。古来の事蹟はそのようなものでしたが、その後、小幡領主の織田氏が正保二年、当郡高田村から八幡宮を勧請して鬼門よけとしたため、付近の住民はその氏子となりました。しかし、村民は由緒の古い本社を昔と同様に崇敬して、甚だしく荒廃するには至っていません。本社の創立は、人皇十七代履仲天皇の御代といいます。代々、小幡氏・織田氏・松平氏の祈願祭祀がありましたが、維新とともに廃絶しました。この神社の祀官は堀口氏といい、新田の一族の堀口貞満から出たと称しています。紋所は表紋は一引両、裏紋は菊の花葉を用いて来ましたが、おそれ多いのでこれを用いることを避け、株竹に雀を用いているといいます。歴史を振り返ってみると、金ヶ崎の合戦の後、貞満は行方知れずとなっています。あるいは、このあたりに来て隠れ住んだ可能性もあります。大日本史によれば、貞満の子の貞祐は一時近江の堅田に住んでいましたが、足利義詮が東奔した際、兵五百を率いて真野浦でこれを遮って戦い、佐々木秀綱を斬りました。父貞満と同様、その終焉の地は知られていません。神官の堀口氏の家は、貞満の子の貞規を祖としていると伝えています。(「群馬県北甘楽郡史」より)新田氏とこの地方の関わりとしては、『鑁阿寺新田足利両家系図』に、新田義顕(義貞の嫡男)の母を「上野国甘羅令安藤左衛門五郎藤原重保女」と記してあり、義貞の義父安藤左衛門が甘楽郡を領していたように記されています。また、同じ系図には、義興(義貞の次男)の母を「上野国抜鉾神主天野民部橘時宣女」としています。抜鉾神社は富岡市にある貫前神社の別名で、これは小幡町の近くにあります。このように、義顕と義興の母方が、いずれも甘楽郡と関係のある記述となっています。神官の堀口氏の先祖が小幡町の赤城神社の宮司となったのも、あるいはこのような縁あってのことだったのかも知れません。また、太平記では、中先代の乱の時に北条時行が信州から鎌倉に攻め寄せようとした際、新田四郎という人物が「上野国蕪川」で北条時行の軍勢と戦って討死したと記されています。「蕪川」というのは現在の鏑川で、甘楽郡を流れる川です。これも、甘楽郡と新田氏が関わりを持っていたことを示しているように思われます。ただ、信憑性の高い史料は残されていません。(サイト「芝蘭堂 大平雑記」より)
静かな神社です。
名前 |
赤城神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
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神社の中に神社がある。大木が繁って風格があります。