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はじめに京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課による埋蔵文化財発掘調査が、令和4年2月27日から6月7日にかけて実施されました。調査地は西大路通と御池通の交差点南西、「西ノ京遺跡」として知られる場所で、平安時代の「右京三条二坊十四町」跡にあたります。過去の調査では、この地域で平安時代から室町時代にかけての都市構造や生活の痕跡が多数見つかっており、今回の調査でも新たな発見が期待されました。調査の背景と目的調査地は古代の「周知の埋蔵文化財包蔵地」に位置し、過去には条坊制関連遺構や人工河川である「野寺川(野寺小路川)」、水利施設が確認されています。平安京遷都時からの基幹水路としての役割を持ち、周辺では平安時代の建物や井戸跡、宅地跡が多数発見されてきました。これらの発見から、今回の調査地でも同様の遺構が見つかる可能性が高いとされていました。調査成果:人工河川と右京域の都市構造今回の調査では、南北2か所の調査区において以下の成果が得られました。野寺川(人工河川)の確認調査区で見つかった主な遺構は、野寺川の一部とみられる南北方向の溝(01SDおよび02SD)です。01SD(北区)幅:2.8m以上深さ:0.86m穏やかな水流があったと推測される平坦な底面が確認されました。01SD(南区)幅:2.4m以上深さ:1.2m逆三角形の断面形状から、強い流れによる氾濫の痕跡も見られました。西肩には木杭や人為的に貼り付けられた堆積土が発見され、河川の護岸工事が行われていたことが判明しました。これらの構造物は平安時代中期から室町時代まで維持されていたと考えられます。02SD(南区)幅:0.8~1.1m深さ:0.15~0.3m右京三条二坊十四町の東境界を形成した築地付近で確認されました。この溝は平安時代中期に埋没したと考えられます。右京域の変遷と生活の痕跡平安時代初期には、右京三条二坊十四町周辺に大規模邸宅が建てられ、貴族層が住む活気ある区域でした。しかし、平安時代中期以降、「池亭記」に見られるように右京域の衰退が進み、人々が離れていった記録があります。その原因には、右京域が左京域に比べ土地が低く、河川の氾濫など自然環境の影響を受けやすかったことが挙げられます。しかし、今回確認された野寺川は、室町時代まで維持され、地域の排水機能を担っていたことが分かりました。右京域に住み続けた人々が河川を管理し、生活環境を守ろうとした努力の痕跡が明らかになりました。発掘調査の意義と今後の展望今回の調査は、右京域が平安京造営時からの基幹水路を利用し続け、衰退後も生活が続いていたことを示す重要な成果をもたらしました。また、人工河川の規模や護岸工事の痕跡は、この地域の生活に必要なインフラが整備されていたことを示しています。こうした発見は、平安京の都市構造やその変遷を理解する上で非常に重要です。今後も継続的な調査を通じて、右京域の歴史や人々の暮らしの詳細がさらに解明されることが期待されます。参考:平安京跡・西ノ京遺跡、京都市内の埋蔵文化財発掘調査速報。