古の平家公達が眠る紅葉の地。
史跡 平知度の首塚の特徴
道外れにひっそり佇む平知度の首塚の魅力は、周囲の景色と紅葉です。
頭のいい小道を抜けた先には、傷んだ柱と赤い石碑があります。
平安時代後期の武将、平知度の歴史に触れられます。
東京から車6時間位倶梨伽羅峠史跡の少し先ループして下った所に少し傷んで字が掠れている柱が建っていて山側に赤い石碑と祠説明板が有ります向側に地元の会社の建物、溝が流れ湧水が滲み出して少し滑る平清盛七男末子で源氏方岡田親義・重義、と討ち上げますが逃れられないと自害(説明板、原典源平盛衰記)現在先行放送中のアニメ平家物語には先ず出て来ないと思われますが平家一門最初の犠牲者平家の公達の中に意外と芸事では無く大力者がいて神戸で業盛とか塚が有りますまた平清盛縁の松の苗木が広島県音戸瀬戸町から植樹されたとか。
平 知度(たいら の とものり)は、平安時代後期の武将。伊勢平氏、平清盛の七男。官位は従五位上・三河守。略歴清盛の七男とされるが母は不明。治承3年(1179年)、治承の政変の後、尾張守から、三河守に遷る。翌治承4年(1180年)、源頼朝を討つべく、甥維盛、叔父忠度と共に大将軍の一人として東国に下向するが、富士川の戦いで敗北を喫し帰京。翌治承5年(1181年)に参加した墨俣川の戦いでは源行家らの軍勢に勝利を納めるが、寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いに参加した際、源義仲軍に壊滅的な敗北を喫する。この際に知度は、源親義・重義父子と交戦して相打ちとなり、戦死を遂げた(あるいは自刃したとも)。清盛に連なる平家一門において最初の戦没者である。石川県河北郡津幡町にはその首塚と伝わる石碑が現存する。【Wikipedia】
今が盛りの紅葉と、片田舎の温かい住民に慕われ、古の平家公達・平知度の首塚が安らかに眠っていた。
名前 |
史跡 平知度の首塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.town.tsubata.lg.jp/kankou/content/detail.php?id=14 |
評価 |
4.0 |
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道外れにある首塚。訪れた時は、花を手向けた跡はあるものの、階段にはクモの巣がはった状態でした。人知れず存在する歴史の跡。ただ、その歴史には壮絶な物語があったに違いありません。以下、概略です。平知度は平相国清盛の末子(七男)。倶利伽羅合戦の翌夜明に知度は、50余騎を率い声をあげ鞭を打って敵中にかけ入った。知度は、岡田冠者親義と戦い、太刀にて打ち落す。続いて太郎重義も打ち落した。しかし、知度は逃れがたきを知り、自害したと源平盛衰29巻には記されている。