金沢城公園で戌亥櫓跡の絶景を。
金沢城 戌亥櫓跡の特徴
櫓の跡地から眺める美しい卯辰山の景色が楽しめます。
高台に位置し、橋爪門や菱櫓をきれいに撮影できる好スポットです。
残る堀切やトンネルが江戸時代の歴史を感じさせる不思議な場所です。
本丸跡から下った所に広がる高台があったので訪れた。金沢城敷地全体を俯瞰的に見ることが出来、見応えがあるように思えた。この場所も櫓跡と言う通り石垣しか残ってないが、その面影や、眺めを見るだけでも訪れる価値はあるのではないだろうか。
高台にある戌亥櫓跡です、金沢城公園を見渡せて非常に景色の良い場所です。
橋爪門、菱櫓をきれいに撮影できる場所の1つです。二の丸御殿が完成したらもっときれいな景色がみられるでしょう。
⭐️本丸の北西隅『戌亥櫓跡』ここも宝暦の大火(1759年)で焼失し再建されず、再建されたら高台に二重の櫓、素敵でしょうね✨⭐️丑寅櫓跡や辰巳櫓跡とは違い、思いの外、開けていて広く明るく整備されています、高台に成っているので二の丸・三の丸方面が一望出来て「橋爪門」や「橋爪門続櫓」が眼下に見れます、ゆっくりベンチでひと休み😄⭐️戌亥櫓跡の東側、本丸跡の間に凄く大きな堀切に変なレンガ造りの小さいトンネル、江戸時代初期の「加賀国金沢之絵図」などには、こんな大きな堀切跡は無いです、何時掘ったの⁉️
金沢城の先に卯辰山が見晴らせました。天気が良ければ北西方向に内灘の日本海が見えそうです。
金沢城の先に卯辰山が見晴らせました。天気が良ければ北西方向に内灘の日本海が見えそうです。
二の丸広場から極楽橋を渡り三十間長屋の高台にたどり着く。そこが戌亥櫓跡の高台です。昔は此処から日本海が見えたとか。ここから本丸の北西(戌亥)の監視をしていたらしいです。風が涼しくて気持ちの良い場所でした。1759年の大火後は再建されず、この跡は資料として拵えたっぽいです。木陰のベンチで堀と石垣を見ながらぼーっとするのもいいでしょう。
橋爪門の前あたりから戌亥櫓跡下の石垣を眺めた様子です。ライトアップが見事でした。
櫓の跡地です。建築物はありません。ここから二の丸がよく見えます。南側にトンネルと窪地が見えます。陸軍の弾薬庫の跡とか。バボーンとなったことはないはずです。
| 名前 |
金沢城 戌亥櫓跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
076-234-3800 |
| HP |
http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/index.html |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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金沢城の本丸北西隅には「戌亥櫓(いぬいやぐら)」という櫓がかつて立っていた。「戌亥」は方角を表し、北西を意味する。江戸時代、寛永8年(1631年)頃に造られたとされるこの櫓は、城内の監視や防衛のために重要な役割を果たしていた。櫓の特徴としては、二層二階建てで、西側と北側にそれぞれ「出し(張り出し窓)」が設けられ、外敵への備えを万全にしていた。戌亥櫓は城の外側よりも内側を見通す構造だった。これは城外の敵だけではなく、城内で起こる異変にいち早く対応するための構えだったのだろう。本丸内の他の隅櫓、例えば辰巳櫓(南東)や丑寅櫓(北東)などとともに城の防備体制を支える一角を成していたわけだ。そんな戌亥櫓だが、宝暦9年(1759年)の「宝暦の大火」で焼失し、その後再建されることはなかった。この宝暦の大火は金沢城下のほぼ全域を焼き尽くすほどの規模で、戌亥櫓だけでなく本丸や二の丸の多くの建物も焼け落ちてしまった。加賀藩は財政難という事情もあって、城内の復興を限定的に行ったため、重要な門や一部の櫓を除き、多くの建物は再建されず、そのまま石垣だけが残る状態になった。戌亥櫓もまた、その中の一つということになる。現在、この場所には当時の櫓台を支えていた見事な石垣だけが残されている。この石垣は「粗加工石積み」という技法が用いられているもので、一見すると整然とした切石積みに見えるが、よく観察すると粗割り石の隙間に平らな小石を埋め込んで隙間を埋めるという、職人技が光る石垣だ。寛文年間(1661年~1673年)や明和3年(1766年)頃に改修されたことが分かっており、今なおその堅牢さを誇っている。戌亥櫓跡は城の中でも特に見晴らしがよく、現在では眼下に広がる二の丸広場や、復元された菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓などを一望できるスポットとして知られている。実際にこの地に立って周囲を見渡すと、なぜこの場所に櫓が築かれたのかが体感できるはずだ。当時ここから城下や城内を監視していた侍たちの視点に立ってみれば、その地理的な重要性や歴史的な価値を肌で感じることができるだろう。また、戌亥櫓跡周辺には城内外を含めて興味深い史跡が多い。近くの玉泉院丸庭園は、三代藩主・前田利常が整備を始めた庭園で、江戸時代末期の姿に基づいて復元されている。高低差を活かした池泉回遊式の庭園は金沢城の美的な側面を楽しませてくれる。また、城外へ少し足を伸ばせば尾山神社がある。尾山神社は前田利家公を祀る神社だが、元は城の一部だった金谷出丸の跡地にあり、城郭と神社が隣り合うという珍しい場所だ。さらに、城の東側には重要文化財の石川門が現存している。この門もまた宝暦の大火で焼失したものの、1788年に再建され、現在まで金沢城のシンボル的存在となっている。城門の建築を眺めているだけでも、戌亥櫓のような城内の防御施設と門が果たした役割や位置づけが理解しやすくなるだろう。戌亥櫓跡は、一見すると石垣しか残っていないため派手な史跡ではない。しかしその静かな佇まいからは、金沢城が歩んできた江戸時代以降の激動の歴史が強く感じられる。繁栄と災害、再建と放棄という複雑な歴史が詰まったこの場所だからこそ、かつての武士たちの息遣いを感じ取ることができるのだ。周辺の復元建造物や庭園、神社と併せて訪れることで、単なる史跡を超えた、加賀百万石の真髄に触れる歴史散策が楽しめることだろう。