順徳上皇の歴史で風光明媚。
黒木御所跡の特徴
順徳上皇の御所跡で多くの石碑が点在しています。
小さな庭園やあずまやがあり、静かに過ごせる場所です。
歴史の深みを感じられる風光明媚な景観が広がっています。
初めて伺いました。御所跡は整備されていました。
順徳上皇が承久の乱後、佐渡に配流され22年間を過ごした御所跡で、その皮付きの木材で建てられた粗末な宮は「黒木御所」と呼ばれていました。現在、跡地には上皇の句碑があり、百人一首に馴染みがある方には特に親しみ深い場所です。また、他の歌人や文人の句碑も点在しており、文学好きにも興味深いスポット。敷地内は庭園になっていますが、そこまで広くはなく、観光地化もされていないため、静かに歴史や文化を感じることができます。それらに興味のある方にはおすすめの場所。
順徳上皇の御所跡で有名歌人の石碑が数多くあります。
木陰があり観光の足を少し休めるのに良いとでしょう。トイレ休憩もいいと思います。
僕から見るとなかなか風光明媚に見えますが、都人の帝には同じ風景がとても寂しくて心細く見えたんだろうなと思った。
歴史を感じました。短歌に趣きがありました。とても美しい文字の石碑です。
皇室の方が島流しに成り、お住まいに成って居られた場所。心落ち着きます。
行ってみると意外と何もないです。ガイドさんがいたら変わるかも。
小さな庭園といった感じ奥に行くとあずまやもあります。訪れた文学者が順徳上皇に思いを馳せ残した歌が石碑になっていて、歴史好きのみならず文学好きにもオススメかも。
| 名前 |
黒木御所跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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黒木御所跡は佐渡市指定の史跡で、承久の乱のあとに順徳上皇が佐渡で暮らした中心地と伝わる。黒木御所跡は鎌倉時代の出来事を、そのまま地面に残したような場所だ。承久3年(1221)、倒幕に失敗した朝廷側の処分として、順徳上皇は佐渡へ送られた。これを配流という。配流は、罪や政治上の理由で都から遠い地に移して住まわせる公的な処分で、いわゆる島流しの正式な言い方だ。佐渡では最初に佐渡国分寺が仮の拠点となり、その後、泉という地域に居館が整えられたと伝わる。この居館を人びとは黒木御所と呼ぶようになった。黒木という語は、樹皮を残した木材など、手をかけすぎない材を指すことがある。黒木御所という名には、都の御所のような壮麗さではなく、簡素な造りだったという印象が重なる。ただし、簡素だからといって無秩序だったわけではない。順徳上皇は佐渡でも和歌や学問に取り組み、宮中の決まりごとや祈りの作法といった礼式の枠組みを保ち続けた。学芸とは主に和歌や学問の営みのことを指す。礼式とは、季節や儀礼の区切りの受け止め方、ふるまい方の決まりのことだ。都を離れても、この二つは細く途切れず続いた。俺は、ここにこの場所の重さを見る。終わりの場ははっきりしている。仁治3年(1242)、順徳上皇は佐渡で亡くなり、火葬が行われた。火葬を行った地点は火葬塚として整理され、今は真野御陵として宮内庁が管理している。火葬塚は、火葬を行った場所を示す記念塚で、いわゆる墓や陵とは区分が異なる。黒木御所跡が生活の中心を示し、真野御陵が最期の儀礼の場所を示す。二つを時間順に並べるだけで、1221年から1242年までの流れが、島の中で具体的に見えてくる。黒木御所跡には、いくつかの伝承が折り重なっている。御所の四隅に観音、阿弥陀、薬師、天神の像を安置したと伝わる。泉の寺に平安期の観音像が伝わり、上皇の礼拝に関わる話が残るというが、像と御所を直接に結ぶ確かな記録は弱い。上陸地とされる恋が浦には、父を案じたとされる一首の話や、もてなしの稗の粥を称えたとされる歌の話が残る。どれも地域の記憶として大切だが、伝承として受け止めるのが安全だ。最期についても、絶食があったとする言い方が広まっているが、ここも伝承の域としたい。伝承と実証をまぜないことが読みやすさにつながる。近代以降の出来事も、この場所の意味を支えている。大正5年(1916)、皇太子(のちの昭和天皇)が佐渡を訪れ、黒木御所跡に記念の松を手植えしたという記録がある。こうした行為は顕彰と呼ばれる。顕彰は、後の時代の人びとが過去の出来事や人物を見える形でたたえ、伝える営みだ。碑を立てる、説明板を設ける、記念植樹をする、保存の範囲を定める。建物が残らない場所でも、顕彰が積み重なることで、何が起きた地なのかがはっきり伝わるようになる。黒木御所跡は、その代表例だと言える。用語と区分は明確にしておきたい。配流は島流しの公的な処分。行在所は移動の途中や臨時に設ける仮の御所。行宮は一定期間の滞在を前提とする施設。火葬塚は火葬地点を記念する塚。黒木御所跡は市の指定を受けた史跡であり、宮内庁の陵や墓ではない。真野御陵は宮内庁の管理下にある火葬塚で、性格が異なる。名称と区分を押さえるだけで、誤解の多くは避けられる。黒木御所跡が教えることは、三つにまとめられる。第一に、承久の乱という政治の断絶が、配流という形で島の生活に直結したこと。第二に、和歌や学問という学芸と、礼式という作法が、都を離れても細く続いたこと。第三に、近代の顕彰が、建物の失われた跡地にも意味を与え続けていること。この三点を頭に入れて黒木御所跡を見ると、派手な遺構がなくても、ここが物語の芯であることが自然にわかる。