明智光秀の足跡感じる、御幸塚城公園。
城山公園(今江城跡)の特徴
公園内には明智光秀関連の石碑があります。
今江城跡が広がる歴史深いエリアです。
校舎が隣接し、教育の場ともなっています。
今江城(御幸塚城)主郭今江小学校校舎に北郭、亀鹿公園に西郭、南部の広場に南郭があったとあります。南の御幸塚古墳、春日神社、王院館跡等も城内で、位置として、北側に前川があり、西には旧今江潟(現在は田)があり、南側は今江西交差点(東野病院前)から305号線今江交差点につながる道路付近に旧濠があったようです。(探しましたが見つからず)また、東は北陸本線が低くなっていますので、この範囲が城跡かと思われます。天正八年(1580)柴田勝家も本城に陣を置いたようです。城主:富樫泰高、一向一揆、織田軍(柴田)、前田氏1450~1600年頃。
授業でスキーがあった斜面も1番下の部分が整備?されてスキーはもうできないでしょう。運動会では家族の皆さんの観覧席になります。トラック側は簡易テント貼る方が多いので上級国民ぽくて苦手です笑斜面の方は晴れてると暑いので熱中症対策はしたほうがいいです。ある意味クライマックスの王子の森(おうこのもり)の時はテント席よりも斜面席がキレイに見えます。
明智光秀に関連ありメモ御幸塚城(今井城)石碑公園にあり明智光秀初めての大きな活躍そんな時、青蓮華景基の陣所である御幸塚城の東から一つの気(大地に充満するエネルギー)が立って、南へ流れていった。誰もこれに気づかなかったが、青蓮華景基に付けられた明智光秀は、この軍気を見て、急いで青蓮華景基に「東に気が立って南に流れていった。これは戦いが起こる予兆である。ご油断めされるな」と言うと、青蓮華景基は、明智光秀を連れて高い山に登り、気を見て確認し、諸隊へ「ますます備えを堅固に」と連絡した。そうしたところに、永禄5年(1562年)9月20日の夕方、一揆の悪党どもが雲霞の如く押し寄せてきた。青蓮華景基は、かねてから御幸塚城の外に堀や柵を設けていたので、少しも騒がず、心静かに敵を待ち構えていると、先手(先陣)の一揆大将・金剛寺三郎右衛門という者が、2000余人を率いて、太鼓を打ちながら、南の方から攻めてき。
目の前が今江小学校。子供たちの遊び場です。
現在は小学校の敷地となっている様です。小高い山ですが木が生い茂っているため、見晴らしが良いとは言えません。北の今江潟(埋め立てられ現存していません)と南の木場潟に挟まれた地にあったと思われます。旧北国街道が近辺にあったと思いますので、立地や交通の利便性も良かったのではないかと思います。
名前 |
城山公園(今江城跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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公園の一角に石碑があります。