横浜・新港パークでララ物資の意義を感じる。
ララ物資の記念碑の特徴
ララ物資の故事を知ることで、戦後日本の困難を理解できます。
香淳皇后の御製が刻まれた立派な石碑がある場所です。
横浜新港パークに位置し、ララ物資の重要性を祈念した記念碑です。
まだまだ、反日運動が活発な頃にこのような支援物資が届けられたことの意義は大きい。(困窮に至る原因については思う所もあるが)在米邦人達の尽力は称賛されるべきであろう。香淳皇后の御製が記念碑の価値を高めている。
2021年7月25日に訪問。以前から存在を知っていたけど改めて。敗戦直後の食料など困窮する日本を、米国民間有志による「アジア救援公認団体」(LARA)が支援物資を日本に輸送。ここで陸揚げされました。それを記念しての碑と、ララ倉庫訪問時の香淳皇后の御歌が刻まれています。
横浜海上防災基地の入り口横にひっそりとあります。横浜赤レンガ倉庫から臨港パークに向かう時、目にはしていたのですが、あまり深く考えずにいつも通り過ぎていました。石碑にはララ物資と掘られており、Wikipediaによると、ララ物資(ララぶっし)とは、ララ(英語: LARA; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)が提供していた日本向けの援助物資のこと。」とありました。また、「支援物資は、1946年(昭和21年)11月から1952年(昭和27年)6月までに行われ、重量にして3300万ポンド余の物資と、乳牛や2000頭を越える山羊などもあり、全体の割合は食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%となった1,。多数の国家にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったため、その救援総額は不明であるが、推定で当時の400億円という莫大な金額であったといわれている」とあり、まだまだ表面的ですが、非常に大きな援助があった事が学べました。石碑には香淳皇后(昭和天皇の皇后)のお名前もありました。小さな石碑ですが、歴史の深さと人の暖かさを感じる事ができました。
ララ:Licensed Agencies for Relief in Asiaの頭文字から採ったもの。戦後の物資不足を補う為に、全米の宗教団体が中心となり、アジア各地へ支援物資を送る船舶の第一船が、横浜港へ着岸し、その後6年間続いたそう。
香淳皇后の御製が刻まれた石碑。埠頭の景色と伴って素晴らしい景観をなしている。横浜観光のついでに戦後の物資不足のおりの「元祖トモダチ作戦」に思いを馳せてみるのも一興かと。
ララ物資の記念碑は、ララ物資が最初に上陸した横浜の新港パークに作られた記念碑です。第二次世界大戦後の日本は、衣・食・住の全てが不足していました。人々は極限状態での生活を強いられていたそうです。それを救ったのがララ物資でした。「ララ」とは、License Agency for Relief in Asia(「アジア救済連 盟」)の頭文字からだそうです。この支援に対する感謝の意を表し、戦後の日本における時代背景を今に語っているかのようで、横浜らしい碑でもあります。
敗戦後の救済物資に関しての碑です。昭和 皇后さまと横浜市長の歌が刻まれています。
立派な記念碑です。
戦後の日本に海外日系人から届けられた食糧・医療などの救援物資に「ララ物資(LARA=Licensed Agencies for Relief in Asia)」と呼ばれるものがありました。東日本大震災で再び多くの救援物資を送ってくれた海外日系社会と日本との、現在までに繋がる絆を感じさせます。このような記念碑が残されているのが横浜の良いところですね。
名前 |
ララ物資の記念碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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あまり知られていないが戦後飢えた国民とくに子どもたちはアメリカからのこのララ物資によって救われた。学校給食もまたララ物資のおかげで始まった。12月24日が学校給食記念日。