静寂に包まれた順徳天皇火葬塚。
真野御陵(順徳天皇火葬塚)の特徴
承久の乱で敗れた順徳天皇の火葬塚があります。
昔は観光名所で賑わった場所ですが、現在は静寂な雰囲気です。
海を見下ろす高台に位置し、厳かな景色が魅力的です。
承久の乱の計画に父の後鳥羽上皇よりも積極的だった順徳上皇が火葬された場所と伝わります。遺骨は京に運ばれ埋葬されたので御陵自体は京都の大原にあり、ここは正式な御陵(みささぎ)ではありません。元から佐渡は流刑地の1つではあっても、前例ない貴人が配流されてきて当時の佐渡の人々がどう感じたか。京への帰還が不可能と悟ったあと上皇は何を思って過ごしたのか。21年間の佐渡暮らし、いろいろと想像は膨らみますね。土産物屋が少しあって御陵が遠くから見れるだけの場所です。私はそれでも歴史好きなら行く価値あるかなと思います。
順徳天皇火葬塚とのこと夕方近くで雨空でそれでいて近くまで行けなくて「こんな感じなんや」となりますが、静寂した不思議なところです。
海を見下ろす高台にあります。手入れの行き届いた厳かな雰囲気で、800年以上前からこの地で大切に守り続けられてきたことには感慨を覚えます。隠れた名所と言えるでしょう。
昔は観光名所で観光バスの頻繁に往き来してました。今は少ないようです。土産店は今でも営業しています。静寂で落ち着ける処です。宮内庁が管理しています。
「壇ノ浦の戦い」後、東国を中心にした武家政権である源氏の支配(源頼朝)に対して、平家の血を受け継ぐ一門の朝廷や天皇家は覇権争を苦々しく思っていた。そこで天皇側にはその平家一門が多かった為、後鳥羽天皇やその三男で比較的、積極的な気性であったと言われている順徳天皇らは武家社会である鎌倉幕府に対し源頼朝を中心とする源氏を打倒に動き始める。そして「承久の乱」を引き起こしたが武家の力強く、天皇側は負けてしまい失敗に終える。後に幕府側の司政官、北条義時らに京都から父の後鳥羽上皇は隠岐島へ、兄の土御門上皇(つちみかどじょうこう)は土佐へ、三男の順徳天皇は佐渡には放逐されるに至る。その一人である順徳天皇はここ佐渡に天皇と言う事もあり、死刑には出来ず流刑されたのである。無念の中で21年後には亡くなる。当地で火葬されるが「流刑の身」でもありながら地元では大切にされていたと言われている。ここ火葬の場(陵墓)からは佐渡の海を経て、はるか京都に向けて位置している・・
全ての天皇陵、神代三陵、白鳥陵などには拝陵させて頂いた。火葬塚なので陵とは言い難いけどこれて良かった。
この辺鄙であった離島に流され、さぞ寂しい想いをしたでしょうね。遺骨だけでも帰京でき、無念の想いは薄らいだでしょうか。崇徳院のような祟り神にならなくてよかったです。そんな祈りの場所です。
厳かに伺いました。
歴史伝説館とセットでどうぞ。簡単なお土産やさんもあります。
| 名前 |
真野御陵(順徳天皇火葬塚) |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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柵の外から拝見するだけなので、時間・興味の無い方はわざわざ寄るほどではないと思います。でもまわりの田園風景や遠くの山なみが美しく、こんなところで暮らしていたんだなとイメージすることができました。