歴史を感じる横浜運上所跡。
神奈川運上所跡の特徴
開港に伴い設けられた運上所の跡地で歴史を感じられます。
現神奈川県庁の敷地内にあり、石碑と説明板があります。
幕末から明治初年の貨物取締りの拠点として重要な場所です。
神奈川県の「横浜 運上所」跡という史跡です。意外と知られていませんが、横浜はみなとみらい地区には、かつての明治維新前後の文明開化のかほりがする史跡が数多くあります。こちらの神奈川運上所跡もそのひとつで、現在の神奈川県庁の各種庁舎の一角の端っこの交差点角に案内板と石灯籠のような史跡が僅かにその影を残します。1859年、横浜港が開港するのに伴い、関税業務,洋銀両替,各国領事との交渉,違法行為の取り締まりなどを行う「神奈川運上所」が設けられました。当時はまだ神奈川県はないので、神奈川奉行が所轄管轄でした。
開港に伴いうまれた業務を行う運上所の跡地です。
開港に伴い、横浜には運上所が設けられた。運上所とは、簡単に言うと「税関」のようなところ。因みに「運上」というのは現在で言う税金の事である。
現神奈川県庁の一角に石碑と説明板。日本の開国と横浜開港により、ここに税関の前身となる運上所が県庁の敷地に置かれていた。近代日本の礎となった横浜の歴史の一部を感じる場所。
キングこと、神奈川県庁の敷地内にあります。「かながわうんじょうしょあとのひ」と読む様です。調べてみると、安政5(1858)年、米英仏露蘭5か国との間に修好通商条約が結ばれ、神奈川宿の名寺には各国領事館や公使館が開設されました。翌年、貿易や外交業務、外国人の居留地整備などを総合的に行う機関として、神奈川宿対岸の横浜村、現在の神奈川県庁あたりに設けられたのが運上所です。運上とは税金のことで、明治5(1872)年に横浜税関に改められ、今に至る様です。
横浜のこの界隈にある、歴史の足跡の一つ。ここから近代の日本が始まった。
開港に伴い、横浜には運上所が設けられた。運上所とは、簡単に言うと物の出入りを管理する機関であり、外交事務や関税を取り仕切るだけではなく、幕府の外務、その他港の行政・刑事、更には船の製造や修理の監督まで行う総合的な役所だった。因みに「運上」というのは現在で言う税金の事である。設置場所は現在の神奈川県庁所在地で、当時は運上所を境に西側が日本人居住地、東側が外国人居留地だった。管轄としては、現在の紅葉坂の途中に置かれていた神奈川奉行の支配下にあった。1866年10月12日に関内大火(豚屋火事)で焼失したが翌年に日本最初となる石造りの洋風2階建て新庁舎が建築され、それを境に横浜役所という名称となり、1868年(明治元年)明治政府に移管されたのである。その後の1872年(明治5年)11月28日に横浜税関と名称を再度改め、現在に至っている。1859年(安政6年)、横浜開港に伴って関税業務や外交業務などをあつかう神奈川運上所が設けられた。当時の管轄は神奈川奉行。1871年(明治4年)、通関事務などが大蔵省管轄となり、翌年には全国の運上所の名称が税関に変更された。横浜税関の初代本庁舎は、1883年(明治16年)に神奈川県に譲渡され、2代目本庁舎は1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊した。現在の本庁舎は、3代目の建物で「クイーンの塔」と呼ばれている。今でも神奈川県庁本庁舎の敷地内には、神奈川運上所跡の碑があり、当時を忍ばせている。
地下鉄日本大通駅の上にあります。
神奈川県庁の脇に碑があります。安政6年(1859)開港に伴い神奈川運上所が設けられました。現在の税関業務や外交業務等、神奈川奉行所の中で最も主要な仕事を受け持っていたところです。開港にともない、関税と外交事務をあつかう神奈川運上所が今の神奈川県庁所在地に設けられ 神奈川奉行の支配に属していました。慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称しました。明治元年(1868)明治政府に移管され明治5年(1872)横浜税関に改められました。
名前 |
神奈川運上所跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
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最初の税関、当時の運上所があった場所。