秀吉の山中城攻め、歴史の息吹。
一柳直末公首塚の特徴
戦国時代の武将、一柳直末の首塚がある史跡です。
小田原征伐の重要な戦いの舞台となった場所でもあります。
直末の戦死を伝える歴史的な足跡を目にできるスポットです。
小田原征伐の前哨戦である山中城を攻城した際に北条勢が放った銃弾に当たり戦死したとされる一柳直末の首塚とされる。
豊臣秀吉軍の武将。山中城にて北条氏を攻めて討死。戦国時代でも大将格が討死することはまれだったそうです。それだけ北条氏が整備した山中城が難攻であったということか。
“私事記” ~はじめに🔰~私個人的に好きな武将ですので、完全なエゴな口コミになります。興味がなければ、⭐️評価は限りなく少なくなる場所です。~一柳直末とは?~豊臣秀吉に使えた武将。豊臣家臣団の中でも古参で、音に聞こえた猛将“熊”と恐れられた豪傑です。黄母衣衆の一人。美濃国軽海西城6万石従五位下伊豆守天正期、豊臣秀吉の小田原征伐、山中城攻めの際に、豊臣秀次軍の先方隊の一翼、1000人隊の侍大将として、出丸砦に取り付く。しかし、出丸砦守備隊長、のちに“間宮海峡”で名を残す間宮林蔵の先祖“間宮康俊”率いる鉄砲隊に撃ち抜かれ戦死。その後に、首を敵方に渡さない為に、当地に埋葬されたようです。山中城攻め事態は、半日で落ちましたが、戦闘中、一柳隊は混乱に陥ったでしょう。戦もどう転ぶかわからないなか、山中城攻めの軍義を開いた“長久保城”近くまで運んだのだと考えられます。“寛政重修諸家譜”にも記述がありますので、この辺りに埋葬されたのだと思います。※⬆️の寛政諸家譜は、一柳家だけでないので、とても面白いですよ。~その後~直末戦死後、豊臣秀吉は、古参の武将を失ったショックで、三日間、口を聞かなかったそうです。“直末を失って、関東を取る喜びも失った”と述べたそうです。一柳家は、弟の直盛がつぎ、この家系が大名家として明治維新を迎えます。旧華族制度では“子爵”お墓は、三島市、山中城三の丸跡にある宗閑寺。はじめは、“こわめし坂”にある一柳庵に、胴体が埋葬されたようです。その後、子孫が改めて宗閑寺に移したそうです。首塚は、直盛の次男、直治が建てたようです。~アクセス~黄瀬川のほとり、黄瀬川と桃沢川の合流地点、“鎧ヶ淵”近く。長久保城跡“城山”を真っ直ぐ下った横にあります。~最後に~この口コミを読んで頂いた方、ありがとうございます💕はじめに申しましたが、私のエゴにお付き合い下さいまして感謝です。一人でも多くの人に、“一柳直末”を知ってほしいです。これもローカルガイドからの“縁”となることをです💐
小田原攻めの山中城での戦で戦死して首を裾野市まで持って来るのは、大変な事でしょう。山中城の戦は、両軍ともに死者が出ています。住宅街にありますが、大切にされている様です。
こんな所に?と思った。
秀吉の山中城攻めで討ち死にした一柳直末公の首塚と言われています。
名前 |
一柳直末公首塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.1 |
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豊臣側の武将、戦死。墓所は山中城跡にある宗閑寺に祀られている。♪官位 従五位下 (天正13年 伊豆守に叙任)♪戒名 大通院殿元叟長大禅定門一柳伊豆守直末公の墓碑が末裔 (一柳貞吉) によって建立され、碑文が刻まれている。