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古代、この辺りには車持君(くるまもちのきみ)という豪族がいたと伝えられています。車持とは天皇の乗る車駕を担当する役目であったとも言われています。また、上野を支配していた上毛野君(かみつけのきみ)の子である小群(おぐり)が、渡来人から、馬に牽かせる車のことを聞き、自分で製作して都へ献上し、朝廷より車持朝臣の名を賜ったともいいます。また別の史料では、特に朝廷より、車に乗ることを許されていたので、車持と呼ばれたとあります。どちらにしても、車持君が治めていたため、この辺りは車評(くるまのこおり)と呼ばれていました。奈良時代になって、国も郡も二文字で表すよう定められ、上毛野国(かみつけのくに)は上野国(こうづけのくに)となり、車評は群馬郡(くるまのこおり)となりました。これが現在の群馬県の発祥となりますが「くるま」という名は、いつしか消えて忘れ去られていました。明治時代に町村合併で、いったん久留馬村が成立しますが、昭和になって榛名町に吸収され、再び消滅することになりました。しかし、その後、小学校の名に伝統的な地名を残すことになり、 久留馬小学校に車の名が復活したのだそうです。道路沿いには「水の郷くるま」と記した旗が翻り、地元の方々の久留馬という名への愛着を感じます(*^^*)