馬庭念流の歴史を感じる。
馬庭念流道場の特徴
馬庭念流は樋口家により継承される貴重な剣術の流派です。
地元の小学校で稽古として受け継がれている歴史ある武道文化です。
馬庭念流は古武道の技術を稽古できる貴重な道場です。
案内板がありましたので下記に記載します。馬庭念流道場一、名称県指定史跡 馬庭念流道場及関係文書二、指定地積及び指定物件宅地五十二坪 道場一棟 関係文書百六十八点三、指定年月昭和三十一年六月二十日四、所在地群馬県多野郡吉井町大字馬庭八十番地 五、文化財の概要念流は相馬四朗義元(慈恩念大和尚)が創始し慶長三(一五九八)年 念流七世友松偽庵氏宗 が樋口又七郎定次に伝え、定次は念流八世となり、 中興の祖と仰がれた。念流は一世一人のみ秘伝書を伝授するという。十三世、十四世、十六世、十 八世、十九世らは江戸にも道場を開いている。 馬庭道場の?士館は慶応三年(一八六七)年に門人達により建てられた。三護神摩利支天は信州浪合(念流発祥地)、より勧請したものである。 門人は、武士のほか農民など庶民にまで及び、数百年の星霜をこえて念流宗家と道場とが現代に生きつづけていることは全国でも例のない貴重なことである。毎年一月の第三日曜日には、鏡開きが行われ、 演武が一般に公開される。当主、二十五世 樋口定仁昭和六十三年九月一日群馬県教育委員会高崎市教育委員会と記載されております。
かつては、地元の小学校で小学校高学年になると、授業で馬庭念流の稽古がありました。今でもやっているのかな?
歴史を感じます。
うちの奥さんの実家の隣りです。多くの剣術家が鍛練したところ聞いてます。
貴重な文化財❗️継承、維持に携わる関係各位の方々に深く感謝を致します。
コロナの影響で門しか見られないです。
馬庭念流を伝える樋口家は、遠く木曽義仲の四天王のひとり、樋口兼光を祖としています。樋口兼光は義仲の乳兄弟であったと言われています。義仲の父である義賢は、源義朝の嫡男の悪源太義平に討たれました。義朝と義賢は兄弟の間柄でしたが、対立関係にあり、父に命じられた義平は義賢の館を急襲。義賢は逃れましたが、追いつめられて討たれてしまいました。そのとき、まだ幼子であった義仲は、ひそかに木曽へ送られ、中原兼遠のもとで養育されました。兼平の嫡子である兼光は、義仲とともに育ち、のちに股肱の家臣となり、妹は義仲の妻となって巴御前となりました。兼光は信州樋口村に住居を構えてから樋口姓を名乗りました。のちに上野国吾妻郡に移り住み、鎌原の鎌原宮内小輔に仕えました。延徳元年(1490年)平井城の上杉顕定に乞われ、領地と家臣を与えられて馬庭に移りました。永正7年(1513年)その顕定が越後で長尾為景(のちの上杉謙信の父)と戦い、討ち死にすると、城を去って剣法に打ち込みました。以来現在に至るまで、剣法の奥義を脈々と相伝しているといいます。山名八幡宮には、七世定次がビワの一刀をもって打ち割ったという巨石が残されています(*^^*)本当に木剣で石を打ち割ることができるかは…わかりません(^_^;)十一世定勝は、江戸城内吹上において、三代将軍家光の眼前で、甲州の剣士中条五兵衛に打ち勝ち、名声を不動のものにしました。十二世将定は、高田の馬場の仇討ちで有名な赤穂義士のひとり、中山安兵衛に剣を教授しました。安兵衛が見事に仇討ちを成し遂げたときには、祝いとして備前国守行の名刀を贈ったといいます(^_^ゞ
何年か前にぶらりと見学に行きましたが対応してくれた方が丁寧でした。
馬庭念流(まにわねんりゅう)は、樋口家第17代当主・樋口定次が友松氏宗より学んだ念流を元に確立した、剣術を中心に長刀術(薙刀術)、槍術も伝える古武道の流派。 樋口定次が、上州多胡郡馬庭村(現、群馬県高崎市吉井町馬庭)において道場を開き、樋口家が馬庭村で伝承し続けたため、馬庭念流とよばれるようになった。 毎年1月の第三日曜日に道場開きが開かれている。
名前 |
馬庭念流道場 |
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ジャンル |
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電話番号 |
027-388-4402 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.6 |
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日本の剣術を辿っていくと、 神道流(塚原卜伝や剣豪将軍足利義輝、示現流の東郷重位等)・念流(一刀流の伊東一刀斎や小野忠明、千葉周作等)・陰流(柳生十兵衛等)の兵法三大源流に行きつくといわれていますが、その念流の一つ真庭念流の道場がコチラになります。 また この道場ではありませんが(江戸赤坂道場だといわれています)、忠臣蔵で吉良邸討ち入りした四十七士中 最強剣客の堀部安兵衛もこの真庭念流を学んでいたそうです。…って 写真に指写り混んでる 撮影下手でスミマセン。