スポンサードリンク
スポンサードリンク
名前 |
秋葉神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.3 |
大谷秋葉神社(おおやあきばじんじゃ)御祭神 火之迦具土神 軻菜姫命由緒秋葉神社は、この地の旗本森川氏が万治元年(1658)に勧進した神社です。享保二年(1717)正月二十二日の江戸本郷の大火の折、同所にあった森川氏屋敷に、この秋葉神社の御祭神の神像が飛来し、屋敷を延焼から守り無事大火から免れたという伝承が残っています。その後、広く近隣の人々からも信仰され、特に四月の例祭や酉の日には近郷近在の人々で大変な賑わいをみせたといいます。松山宿からこの神社への経路は秋葉道と呼ばれました。幅九尺(約2.7m)の道路で要所々々に道標も建てられ、大谷地域から松山宿への往来にはこの道が使われました。(「境内案内板」参照)秋葉神社の鎮座地は、大谷の集落北方の小高い丘の突端にあります。近くには、江戸期を通じて当神社を累代崇敬した森川氏の陣屋跡があります。森川氏は徳川の旗本で、天正十八年(1590)に家康に従って関東に入り、当地に領地を得て陣屋を構えました。当神社を勧請したのは森川金右衛門であると伝わり、その本社は、遠江国の秋葉大権現社で、火防の神として知られています。享保二年(1717)正月に起こった江戸本郷大火の際には、当神社の霊験が現れ、森川氏の江戸屋敷だけ、野原に孤島のように焼け残りました。江戸本郷大火の際に現れたその霊験が、大谷の秋葉神社の御神像と瓜二つと思った留守居の者が、村に帰り本殿を開けた所、台座のみが残っていて、「秋葉さまが江戸まで飛んで行ってご領主さまを守ってくださった」と言う話を聞いた森川氏は大層お喜びになり、これは日頃崇敬する秋葉大権現のお陰であると感謝し、享保十五年(1730)に老朽化した当神社の社殿を造営するとともに、毎年、御供米一俵を寄進するようになりました。また、火防祈祷のみならず、後には養蚕祈祷も盛んに行われ、神楽を奉納すると共に、酒を酌み交わし祭りを楽しみました。江戸期、当神社の運営は、江戸の青山鳳閣寺末の当山派修験長谷山成就院東海寺と、村方の者で行われていましたが、明治初年の神仏分離により、成就院は復飾して当神社の祭祀から離れました。代わって、大谷野田の修験大行院が復飾して加藤大膳と名乗り、神職と成って当神社に奉職しました。明治元年(1868)村役人に提出した大膳の請書には、「私儀は神主名目計りにて、秋葉社の儀は子々孫々に至るまで村持にて先規仕来りの通り、何事によらず村御役人中へ御願申上、御差図請、自己の取計へ決て仕間敷候」とあり、復飾して間もない神職の立場が窺えます。(「埼玉の神社」より)