小針日枝神社の彫刻美。
日枝神社の特徴
本殿には見事な彫刻が施され、特別な雰囲気を放っています。
夕方の日差しが強く、幻想的な神社の景色が広がります。
子供の頃のお祭りの思い出が蘇る、懐かしい場所です。
小針日枝神社(こばりひえじんじゃ)御祭神 大山咋命合祀社 御嶽神社 厳島社 宇賀社由緒小針村 蔵王権現社二宇 共に村内の鎮守なり 一は大福寺 一は神仙寺の持(「新編武蔵風土記稿」参照)当神社は四方を水田に囲まれて鎮座しています。境内は昭和三十五年(1960)頃まで数百本の大木が林立し、山王様の山と呼ばれていましたが、ほとんど枯死してしまいました。境内前方は低地のため、以前は上沼・下沼と称する二つの大きな沼があり、養魚も行われていました。現在、境内の「舟つきの松」だけが当時の名残をとどめ、その樹齢は約450年といわれています。主祭神は大山咋命ですが、当神社の創始にかかわる史料はなく、「風土記稿」に「蔵王権現社二宇 共に村内の鎮守なり 一つは大福寺持 一は神仙寺持」とあり当神社は載せていません。口碑に鴻巣市三ツ木の山王社を当神社から分霊したことが伝えられているだけとなっています。「明細帳」によると、境内社として八坂神社と前玉神社がありましたが、現在は本殿に合祀されています。明治五年(1872)に村社となり、明治四十年(1907)に字星川と字本郷からそれぞれ御嶽神社を合祀しました。この御嶽神社が前出の蔵王権現社で、星川の旧社地を「ゾウ様屋敷」と呼ぶのがその名残となっています。更に同年(1907)字大沼(弁天)の厳島社、字沼通の宇賀社、字屋敷の稲荷社を合祀しました。このうち稲荷社は旧地に復しています。当神社がいかなる事情で当地に勧請されたのかは、今となっては知る由もないのですが、境内には種々の石祠・石碑が点在し、中でも天明六年(1786)、同七年(1787)、同八年(1788)二月、同九年(1789)と、石灯籠が四基も続けて奉納されていて、往時の信仰を物語っています。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」参照)拝殿向拝の木鼻には龍、向拝頭貫上には神使である猿が彫刻されています。本殿胴羽目には、隠岐へ流される途中の後醍醐天皇に救出の誓いを込めた漢詩を読み上げる「児島高徳」図、仁徳天皇が「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」と言った逸話が残る「民のかまど」の図、死を覚悟した楠正成が息子・正行を逃して京へ帰すと言う太平記の名場面「桜井の別れ」の図が彫刻されています。小針の地名は開墾地を意味し、嘗て、旧忍川と見沼代用水に囲まれた小針地区は、恒常的な排水不良に悩まされていました。そのため境内には小針地区の治水に関する石碑や、天明二年(1782)建立の弁才天などもあります。
拝殿を見ると単に普通の村の神社だが、本殿には彫刻がはめ込まれている。題材は、隠岐へ流される途中の後醍醐天皇に救出の誓いを込めた漢詩を読み上げる児島高徳の図、仁徳天皇の逸話、「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」、俗に言う「民のかまど」の図、死を覚悟した楠正成が息子・正行を逃して京へ帰すと言う、太平記の名場面「桜井の別れ」を模した図の3面。創建年代は不詳。言い伝えでは、鴻巣の三ツ木神社は当社から分霊したとされているので(三ツ木神社の由緒とは食い違っている)、それなりに古くから鎮座しているのかもしれない。かつては当社境内の南側には小針沼という大きな沼が広がっており、沼を含む周辺の開墾は延宝年間(1673〜1681年)に始まったとされるので、その頃に創建されたのかもしれない。小針沼はその後、宝暦4年(1754年)に東西に分ける中堤(現在の県道364号)が築かれ、昭和の初期までには埋め立てられてしまった。その様な経緯から、当社は小針沼に向いて建っていたということになる。
何も無い神社です年に1度のお祭りも人が居ません。
特に何も無い神社。
実家が近くなので子供の頃お祭りに行っていました。みんなどうしているだろう?
夕方の日差しが強かった。4月なのに気温26度,朝13度。向拝木鼻彫刻は龍,水引虹梁中溝は猿の彫刻。本殿両脇に神猿像,不老長寿の桃を持つ猿と子を抱く猿。
名前 |
日枝神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.3 |
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きれいにされています。思って広かったです。