歴史語る大和郡山城跡。
郡山城跡の特徴
大和郡山城は、広々とした景色と圧巻の石垣が魅力的な史跡です。
復元された追手門や東隅櫓は、建物好きにはたまらないスポットです。
桜の時期にはお城祭りも開催され、特に絶景が楽しめます。
かなり立派。天守台には、天守閣があったことの証拠となる礎石が平成26年の発掘調査で明なきなり、天守閣あったか論争に終止符を打った。そこに上がると、全体の景観の良さに加え、城の壮大さがわかる。堀は一番高い内堀は空堀になっている。そのため石垣の積み方がよくわかる。
郡山城跡は、筒井順慶が築城し、豊臣秀長によって大規模に整備され、幕末まで安定した治世が続き、江戸時代を通じて大和国の政治・経済・文化の中心地として繁栄、歴史的価値の高い近世城郭です。天守台からは奈良盆地を一望でき、桜の名所としても有名で、石垣や堀、復元された櫓などが往時を偲ばせています。令和四年には国の史跡に指定されています。\ufeff城内には奈良県指定文化財の「旧奈良県立図書館」や、歴代藩主を務めた柳澤氏により寄贈された藩政資料や、古文書等を所蔵した「柳沢文庫」等あり、多くの人で賑わっていました。最後に登城記念として、柳沢文庫にて御城印を購入してきました。
約30年ほど前に訪れていたのですが、その頃よりも発掘調査が進んでいろんな事がわかってきたようです。敷地内も当時に比べて整備されてました。堀や石垣は見事でしたね。話題の逆さ地蔵も拝ませて頂き予想以上に良かったです。来年は大河ドラマの影響でたくさんの人が来られるでしょうね。
堀と石垣はしっかり残っているのでそれだけでも見どころはあります。石垣にも歴史が詰まっていて地蔵や墓石などが使われていたりします。なかには奈良ならではに寺の礎石なんかも転用されているようです。追手門や櫓も一部復元されています。二の丸の敷地には郡山高校がありますが奈良県は観光資源が豊富ですから移転などの計画もないんでしょうね。建物が老朽化してきたら移転などを考えてもらいたいですね。
城の遺構は石垣、堀がしっかり残っているのでそれなりに楽しめる。特に石垣は野面積みで、自然石を上手く積み上げているのが楽しめる。特にここの石垣は色々なところから石を徴発しているので、地蔵様も石垣に使われていたりとちょっと他と違う石を探す楽しみもある。復元された門や櫓もあるので城らしくなっている。
近鉄郡山駅より徒歩10分位の所にある、続日本百名城。戦国時代の野面積み石垣が良好な状態で残る、全国でも貴重な城跡。柳澤美濃守吉康公は、川越城や甲府城を統治したのち郡山城の城主となり郡山藩を治めることに。桜の名所としても有名。
梅雨明け晴天の土曜日、猛暑のためか、人は少なめでした。平山城ながら天守跡からの眺めが良いです。安全確保のために必要なのでしょうが、石垣に手摺がある分、雰囲気を損なっているようにも感じました。
2025年5月25日訪問。御城の跡ということでこれと言って見どころはないですが静かで見晴らし良くて想いに耽ることができます。無料駐車場がありますが分かりにくいかも。散策道の途中で新しく清潔な休憩所とトイレがありました。無料で使わせてもらうのが申し訳ないくらいです。
令和7年4月5日訪問お城まつりが開催されていました。桜がとても綺麗でした!天守台からの眺望も最高でした!来年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長の居城だったんですね。放送開始となれば、来年はもっと大勢の人が来て賑わいますね!
名前 |
郡山城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0743-53-1151 |
住所 |
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HP |
https://www.city.yamatokoriyama.lg.jp/soshiki/chiikishinkoka/kanko/2/1630.html |
評価 |
4.0 |
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郡山城は国の史跡に指定され、続日本百名城に認定されている。現存遺構はほぼ何も残っていないが、大きな天守台はじめ石垣、内堀などが残され、追手門及び周辺の櫓が復元されている。また、本丸及び二の丸が城址公園として整備され見学は無料である。一番の見どころは大きな天守台であろう。天守の記録はほとんど残っていないそうだが、発掘調査により天守の存在が確認された。城主が豊臣秀吉の弟秀長の時代に築かれ、後に二条城に移築されたのだろう。また駐車場からすぐの追手門周辺の雰囲気も良い。郡山城の歴史は古く平安末期~鎌倉時代に築かれたという。戦国時代には松永久秀、筒井順慶の拠点となった。筒井順慶の死後筒井氏は伊賀上野に転封となり、郡山城は豊臣秀吉の弟秀長の居城となった。当時の秀長は大和大納言と呼ばれ、大和、紀伊、摂津100万石を有していた。この時代に郡山城は大幅に拡張、整備されたと思われる。大和大納言家断絶後は五奉行増田長盛が城主となったが長盛は関ケ原の戦いに敗れ追放となる。江戸時代には郡山藩の藩庁となったが、藩主は頻繁に入れ替わり安定しなかった。ようやく1724年に柳沢氏が15万石で入城し、以降明治維新まで藩主を勤めた。明治の廃城令で破却され建造物はすべて撤去された。