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名前 |
千方神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
堤千方神社(つつみちかたじんじゃ)御祭神 興玉命由緒埼玉県の北部にある加須市や羽生市は、藤原秀郷一族と深い関わりがあります。加須市や羽生市に現在三社存在する「千方神社」は、藤原秀郷の六男で、下野鎮守府将軍だった修理太夫千方を祀った神社といわれています。堤村(現羽生市堤)「相伝ふ俵藤太秀郷の男を祀る所なりといへり、按に秀郷が六男修理大夫を千方と云、此人を祀りしなるべし」(「新編武蔵風土記稿」参照)天慶二年(939)平将門が反乱を起こし、国司を追放し国府を攻略、将門は関東を次々に占領して「新皇」と称しました。朝廷は将門反乱の報を受けて、天慶三年(940)正月、東海・東山両道の追捕使を補し、ついで藤原忠文を征東大将軍に任じる一方、東海・東山両道に官符をくだし、将門討伐した者を賞するとして土豪らの奮起をはかりました。下野国押領使の藤原秀郷は将門追討を決意し、征討軍の東下を待たず、平貞盛・藤原秀郷は連合して将門を急襲、二月十四日、将門は下総国猿島郡の戦いで矢にあたって戦死し、残党も相ついで討伐されました。この功績によって秀郷は、下野(栃木県)と武蔵(埼玉・東京)の国司に任じられました。このとき加須や羽生方面に配置されたのが、秀郷の子「修理大夫」だったと言われています。この者は「千方」と呼ばれ仁政をしいたため、領民たちは修理大夫を祀り、千方神社を創建したと言い伝えられています。記録では、羽生は秀郷の二男の「千春」が治めたと亀田鵬斎の書にあります。また、御祭神の興玉命は、衢神で、道の分岐点を守り邪霊の侵入を阻止したり旅の安全をまもってくれる神です。一般に興玉神は猿田彦大神のことを指します。もしかしたら、直接「修理大夫」とは繋がらなかったとしても、当時仁政をしいた地元の有力だった方が祀られているのかも知れません。(個人的な推測です)