桜満開の毒島城址、伝説の地。
毒島城跡の特徴
毒島城跡は、春に満開となる美しい桜が見どころです。
周囲は水田に囲まれた情緒ある環境に位置しています。
蛇体合戦という伝説を持つ歴史深い城跡です。
戦国時代の城跡だが、ガランとして何もなく、囲んでいた湿地も田んぼに衣替え…。大蛇と七つの石臼伝説があり、その石臼が赤堀歴史民俗資料館に展示されている。東側にサクラの大木がズラリと並んでいるので、春は🌸のスポットかも…。
春には桜が満開です名称のとおり、伝説もあるようなので、是非訪れてみてください。
周りはのどかな畑です。
毒島城址は多田山丘陵東側に位置し、周囲は水田に囲まれ平面形は東西約150mの楕円形を呈している。古くは湿地に囲まれた島であったとされている。毒島城址の構造に関しては、中心の本郭とそれを囲む腰曲輪からなっており、戸口は西南面中央1カ所のみであり、攻撃性は低く、出城としての機能を有していたと推測される。また、毒島城には次のような伝説がある。三浦河内守謙庭が毒島城を攻めたとき、この沼には大蛇がすんでおり、なかなか攻められずにいた。そこで三浦河内守謙庭は7つの石臼で毒を作り、沼に投げ入れたため、大蛇はいたたまれず、西に脱出し島はたちまち落ちたという。毒島城は、赤城南麓の戦国時代を解明する重要な文化財であることから、町指定の文化財とした。伊勢崎市教育委員会の案内場員より引用。本郭の半分は畑になっていますが、本郭と腰曲輪が良く残っています。北側には桜の木が多くあり、春には桜の花がきれいに咲くと思われます。
古墳群だと思っていたら城跡で沼のなかにあった島だったらしいちょっとした桜のあなばです。
沼のなかの島だった場所です。今では沼跡は南側に開いていますが、昔は築堤がありました。国土地理院の航空写真からもその跡が確認できます。また、戦後すぐに県内の城郭の研究をされていた山崎一さんの毒島城の縄張り図にも掲載されています。沼がいつ頃まで残っていたかは不明ですが、築堤の成立を考えれば時期が判明するかもしれません。水源の確保は古代からの命題ですので、赤城山南麓には大規模河川が少なく河床との比高差があることから沼がたくさん作られたようです。いろいろ伝説が残る城跡ですが、場所がら雰囲気を感じる場所です。
桜の時期最高です。
このお城には「蛇体合戦」という伝説があるそうです。鎌倉時代の始め頃、赤堀を領有する青木入道が籠る城に、三千の軍勢が押し寄せました。寄手は赤石郷(現在の伊勢崎市)の三浦賢庭。つねづね領地の境をめぐって、小競り合いを繰り返していましたが、ついに大軍を発して攻め寄せたのでした。賢庭が観望すると、城は沼の中に浮かぶ島の上にあり、東側から攻めた方が近いようです。すぐに下知して軍勢を東側に集めると、不思議なことに城は島ごと、沼の反対側に動いていってしまいました。今度は西側から寄せようとすると、また反対側へ移動してしまいます。これは巨大な生き物が島を動かしているに違いないと気付いた賢庭は、辺りに生えていた猛毒のトリカブト(ブス)を石臼で挽き、沼に投げ込みました。するとにわかに水面が暴れ出し、沼の中から巨大な蛇が、苦しみにのたうちながら姿を現しました。島を動かしていてのは、この沼の主である大蛇であったのです。さしもの大蛇も、ブスの毒には敵わず、ついに城は落ちた…というお話です。ブスを挽いたという石臼は、城の北側の峰に最近まで残っていたそうです(*^^*)
毒島城跡(ぶすじま)は、周囲を水田に囲まれ、平面形は東西約150メートルの円錐台形をしている。古くは沼の中に孤立した島であったといわれ、この沼には大蛇が住んでいたという伝承がある。桐生氏の家臣、毒島勘解由長綱が城主であったといい、後に桐生市広沢の寄居に移った。 城主が青木入道の時、三浦河内守謙庭が毒島城を攻めた時、この沼には大蛇が住んでおり、なかなか攻められずにいた。そこで三浦河内守謙庭は7つの石臼で毒を作り沼に投げ入れたため、大蛇はいたたまれず西に脱出し、城はたちまち落ちたという。 城の構造は、上段部に本郭、下段部にそれを囲む腰郭からなっており、虎口は西南面中央1か所だけである。上杉謙信の馬蹄の跡と言われる岩がある。
| 名前 |
毒島城跡 |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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立入禁止でした😢