赤城火山鎮撫の地、旧一の鳥居。
小暮神社の特徴
旧赤城一の鳥居は宝暦十一年建立の貴重な文化財です。
昭和23年に復帰した小暮神社は歴史深い神社です。
大日孁命や菅原道眞を祀る神社として知られています。
旧赤城一の鳥居が大切に保存されています。この赤鳥居は、もともと小暮にあったものですが、江戸時代の天明の浅間大噴火の翌年、赤城山を鎮めるために、登山口に一の鳥居として移築したのだそうです。その後、有料道路の開通とともに、赤城山頂に移されましたが、風雨のために老朽化が進み、見かねた里人の願いで当地に戻され、以後は大切にされているのだそうです。いま赤城登山口には、この木製の鳥居の代わりに、コンクリート製の巨大な赤鳥居が建っています。また小暮という地名は、親鸞上人にゆかりがあると聞いたことがあります。上人は道場を建設するため、赤城山を下見に訪れましたが、赤城の神が邪魔をして果たせませんでした。諦めて帰るとき、この辺りで日が暮れたので、小暮という地名になったということです(*^^*)
【旧一之鳥居の由来】この赤鳥居は宝暦十一年に小暮地内に建立され浅間大噴火の翌天明四年に赤城火山鎮撫のため一之鳥居として赤城登山口に移築された。その時書家の角田無幻が赤城山の風格を豪快に表す額文字を揮毫している。この鳥居は、近郷希な優雅な形で昔から小暮の一之鳥居として親しまれ地域の象徴として名声を高めてきた。昭和四十年に赤城有料道路建設の折、この貴重な文化財の解体撤去を惜しむ多くの人々の努力で赤城大洞に移築された。しかし、山頂の厳しい風雪に材質の損傷も拡がり、それを心痛した小暮五区民が浄財を募り村の援助も得て温和な小暮の里に遷し、緑に映える深紅の鳥居を補修復元出来た。この由緒ある木造の赤鳥居が二百三十年以上も完全な姿で残っていることは郷土の誇りとする貴重な文化遺産であり、生きた歴史資料として先人の願いを継承し小暮区民の安寧と繁栄を祈念するものである。(記念碑より)
祭神 誉田別命、埴山姫命、素盞嗚命、大日孁命、菅原道眞、水分神由緒は詳らかでないが明治四十年に赤城山山頂大洞の赤城神社に合祀されたが村人の総意に依り、新たに昭和二十三年に至り旧地たる小暮字八幡に復帰し、以前は八幡宮であったが、他の神社を併せて村名をとり小暮神社と名付けられたものである。(「富士見村誌」より抜粋)旧小暮一の鳥居は前橋市指定重要文化財。鳥居上の扁額は、江戸時代後期の僧侶で書道家の「角田夢幻」の書で、現在の小暮十字路にある鉄筋コンクリート製の大鳥居に掲げられる扁額はこの額を拡大したものです。あと、家々は赤飯と甘酒を作りこれを供えて不老長寿を願って邑中のお祭りをしてきた長者石(不老長寿の石)があります。
名前 |
小暮神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
027-287-8202 |
住所 |
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評価 |
3.5 |
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県道4号線を赤城山に向かい、コンクリート製の巨大な一の鳥居を過ぎてすぐに「旧一の鳥居」の標識のある所を右折した所にある。GoogleマップにはPの表示があるが、実際には消防団や児童館の敷地内になるので、車で来るなら少し下のコンビニなどに車を停めて(買い物して)現在の大鳥居や道標を眺めながら歩いて来るのが良いかも。この両部鳥居は、元々宝暦11年(1761)に造られ、浅間山が大噴火した天明三年の翌年天明四年に赤城山を鎮めるために赤城神社一の鳥居として厩橋城からの赤城山登山口に移された。この際に上毛三筆として知られる角田夢幻が扁額を揮毫した。(現在の大鳥居にかけられているもの、ビジターセンターにあるものもこれをコピーしている)小暮神社は明治四十年に赤城山山頂大洞の赤城神社に合祀されたが、昭和二十三年に小暮字八幡に復帰し、以前は八幡宮であったが、他の神社を併せて村名をとり小暮神社と名付けられたものとのこと。