延喜式内社で涼む、静かな神の杜。
小被神社の特徴
小被神社は由緒正しい神社で、信仰の対象として長い歴史があります。
知る人ぞ知る、涼しい木々に囲まれた静かな境内が魅力です。
神社内にはさまざまな摂社があり、参拝者を楽しませます。
小被神社(おぶすまじんじゃ)主祭神 瓊瓊杵尊配祀神 木花咲耶姫命 彦火火出見尊境内摂社 伊勢原神明神社 大久保愛宕神社 鳥羽白山神社 塚越稲荷神社 下郷内の宮社 頭牛天王宮境内末社 鷲丸冨士浅間大神 堂ノ入山神社 谷戸山神社由緒富田邑は、第二十七代安閑天皇の朝(531~535)、郡家郷富田鹿が塚越に居住したことに始まり、小被神社は富田鹿が郡内鎮護のために富田村字塚越(現在の大聖山真言院不動寺境内)に祠を建て、小被神を祀ったと伝えられています。第六十代醍醐天皇の延長五年(927)平安時代中期に編纂された延喜式神名帳に登載されていると云う事です。(「境内案内板」参照)古代当社に関与した氏族として、富田鹿のほかに、男衾郡に置かれた壬生部の管掌者として入植した渡来系氏族「壬生吉志」氏も考えられています。男衾郡大領(郡の長官)の壬生吉志福正は、承和八年(841)自らの子供の生涯の調庸を全納し、承和十二年(845)には焼失した武蔵国分寺七層塔を独力で再建した有力者です。壬生吉志福正は、男衾郡惣鎮守である当社に対し、大領としての政治的配慮から関与したと考えられています。(「類聚三代格」及び「続日本後紀」参照)鎌倉期には、武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬を受けたといわれています。寛文九年(1669)に、富田村民と天正八年(1580)の荒川の大洪水で移ってきた赤浜村民の間で発生した領境論争のため、現在の鎮座地に移転しました。天正年間(1573~1592)、荒川の洪水により右岸にあった赤浜村は疲弊しました。このため、当時この辺りを領していた鉢形城主北条安房守の臣、大久保氏が、赤浜村民に対岸の富田村馬草場を耕作地として与えました。ところが、その後、赤浜村民が富田村の村境を越えて土地を領有してきたので、富田村民は、江戸初期、当社を村境に移転し、境界を明らかにしたといいます。(「武州男衾郡上下富田村与赤浜村境論之事」参照)元治元年(1864)三月九日に、正一位の神階を授かっています。明治時代に入り、神仏分離令により別当寺「不動寺」の僧が還俗して、同社の神職となりました。明治四十年(1907)、堂ノ入と、叺ヶ谷戸の山神社二社、大久保の愛宕社・原の内宮社・塚越の稲荷社・鳥羽の白山社・鷲丸の浅間社を合祀しました。現在、当社内陣には狼の頭骨が納められています。これは合祀した山神社の信仰にかかわった奉納品であろうといわれています。(「風土記稿」参照)当地の文化財として、明治維新に活躍した山岡鉄舟揮毫の社号額と軸が社務所にあります。いずれも肉太で豪胆な筆勢をもって書かれたものです。このうち社号額は、当時、鉄舟に誤って「男衾」と依頼してしまったとの逸話を持つもので、このためにいまだに拝殿に掛けられず、社務所内に掛けてあります。(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」参照)
この神社も男衾郡の三座の一つの神社で昔から由緒正しい神社です。
木が覆い茂ってるので夏は涼しいです。
ありがたいです。
普段は静かな神社。
落ち着いた感あら。
[延喜式内社]武蔵國 男衾郡 小被神社。
延喜式内社。男衾郡総鎮守。旧村社。
名前 |
小被神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
048-584-2880 |
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.8 |
周辺のオススメ

延喜式神名帳の武蔵國男衾郡の項に記載のある式内社。男衾という地名はとても古く、小被とも書かれる。正倉院には男衾郡より税として納められた麻布にこの文字が書かれていて、奈良時代にはすでに存在した地名。当社は延喜式神名帳の男衾郡の筆頭にも記載があり、社名からも男衾郡の代表的な神社であったのだろう。実際、この周辺からは多くの古墳が発見されている。なかでも寄居町末野にある箱石遺跡からは8世紀初頭の古代製鉄炉が確認されている。この製鉄炉の一種類は箱形炉というもので、関西地方を中心に多く発見されている。武蔵國での発見は珍しく、畿内からの技術者の移住があった痕跡かもしれない。境内の案内によると、安閑天皇の御代、富田鹿(トミタロク)なる豪族が地主神を祀ったものという。御祭神は瓊瓊杵尊。相殿に木花咲耶姫命と彦火火出見尊を祀る。