歴史を感じる、香取の神社へ。
側鷹神社の特徴
高皇産霊尊を御祭神とし、1200年以上の歴史を誇る神社です。
国道355線の南坂下交差点から、数分でアクセス可能な立地です。
地元の人々に大切にされており、親しみやすい小規模な神社です。
厳かな空気を感じる。
国道355線の南坂下交差点から数分のところに鎮座。千葉県佐原市に鎮座する香取神宮第一摂社、側高神社と同様の性格の神社。佐原市の側高神社は高皇産霊尊、神皇産霊尊を主祭神とし、そのほか天日鷲命、経津主命、天児屋根命、武甕槌命、姫御神を祀っていますが、当社は高皇産霊尊のほか8柱となっていて、天日鷲命(阿波忌部氏の祖神)は御祭神に含まれていません。・社伝によると、神代の昔に経津主大神が御東征のみぎり、この地に立ち寄り、高皇産霊尊を祀り、石槌の剣を奉げて戦勝祈願を行った。この石槌の剣は当社のご神宝となり、これが創祀となる。また、常陸國風土記によると、行方郡男高里(現在の小高、南、井貝、橋門、島並、四鹿にあたる)に栗家池があって、その北に香取御子を祀る神社があるとのこと。その神社が当社だとしている。香取新誌にも「この側高(鷹)も香取の神子なり」とある。
国道355線の南坂下交差点から数分のところに鎮座。千葉県佐原市に鎮座する香取神宮第一摂社、側高神社と同様の性格の神社。佐原市の側高神社は高皇産霊尊、神皇産霊尊を主祭神とし、そのほか天日鷲命、経津主命、天児屋根命、武甕槌命、姫御神を祀っていますが、当社は高皇産霊尊のほか8柱となっていて、天日鷲命(阿波忌部氏の祖神)は御祭神に含まれていません。・社伝によると、神代の昔に経津主大神が御東征のみぎり、この地に立ち寄り、高皇産霊尊を祀り、石槌の剣を奉げて戦勝祈願を行った。この石槌の剣は当社のご神宝となり、これが創祀となる。また、常陸國風土記によると、行方郡男高里(現在の小高、南、井貝、橋門、島並、四鹿にあたる)に栗家池があって、その北に香取御子を祀る神社があるとのこと。その神社が当社だとしている。香取新誌にも「この側高(鷹)も香取の神子なり」とある。
1200年以上もの歴史ある神社です。御神木もございます。空気も美しい聖なる場所です。
あまりなにもないところですけど、高齢者の方には人気です。
地域の方々が大事にしているお社といった風情の小さな神社です。
常陸國風土記 行方郡条 [栗家池北]香取神子之社他論社として四鹿香取神社がある-御祭神-主祭神:高皇産霊尊合祀: 経津主命 武甕槌命(合祀した鹿島神社御祭神) 倉稲魂命(合祀した稲荷神社御祭神) 天照皇大神(合祀した伊勢神社御祭神) 猿田彦命(合祀した道祖神社御祭神) 産火火出見命(合祀した愛宕神社御祭神) 伊弉諾命(合祀した日枝神社御祭神) 菅原道真公(合祀した天満宮神社御祭神)-由緒- 社伝によると、神代の昔、経津主大神が御東征のおり、この小高の地に寄られて天祖高皇産霊尊を祭り、石槌の剣を捧げて戦勝を祈られた。この石槌の剣が側鷹神社の御神宝となり、この祭りが創祀となったと言われている。 また、常陸風土記によると、行方郡男高里(現小高、南、井貝、橋門、島並、四鹿)に栗家池(現車地池)があって、その北に香取神子の社があると。即ちこれが側鷹神社である。さらに新編常陸風土記にも、「小高村側高明神香取に摂社にして、風土記に小高香取神子の社」となるといい、香取新誌にも風土記をあげて、「この側高(鷹)も香取の神子なり」と言われているように、古来から小高郷の総鎮守であった。-祭事-元旦祭1月3日 神社総代8名、神社委員19名参列祈念祭2月17日 神社総代8名参列例大祭11月23日 神社総代8名、神社委員19名参列甲子祭 甲子の年 60年に一度の大祭-沿革-・大同2年創立(西暦807年)・元禄12年9月本殿・拝殿改築・慶長7年佐竹氏出羽秋田城に移った後、新荘氏麻生に封ぜられ、当社と産土八幡宮、大生村大生神社とあわせて領内三社と称し、篤く崇敬された。・明治6年10月5日村社に列格。・昭和14年10月拝殿改築・同27年8月15日宗教法人設立。・同28年拝殿屋根修理・同33年本殿屋根銅板葺替・同61年拝殿屋根銅板葺替・平成16年本殿基礎修理-神紋- 左三巴-境内地- 2256.10平方メートル。
国会議員 額賀福志郎氏 の 出生地神社です 隣接して 今は廃校の 小高小学校があります。
名前 |
側鷹神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0299-77-1580 |
住所 |
|
HP |
https://www.ibarakiken-jinjacho.or.jp/ibaraki/rokko/jinja/08078.html |
評価 |
4.2 |
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御祭神は高皇産霊尊・香取御子神。創建は大同2(807)年。古来から小高郷の総鎮守であり、領主・新庄氏により、当社とその産土八幡宮、大生村大生神社と併せて領内三社と称し、篤く崇敬された。明治6年村社列格、大正2年供進指定。境内の由来板には、「常陸風土記に「栗家の池あり、北に香取の御子の社有り」と記されているのはこの社であると常陸国誌や香取新誌にもうたわれていて土地の人も又これを信じて疑わない。社伝によると神代の昔経津主命が東征のおりこの地に憩い、天祖高皇産霊尊を祀り石槌剣を捧げて戦勝を祈念したとの故事によって、その霊剣を御神体としてここに鎮祭したと伝えられている」本日の聖地巡礼(ご当地アニメじゃありません)は、下総国一宮である香取神宮参拝を第一目標とし、当社が帰路における最後の参拝社だったのですが、もちろんのこと。午前中に香取神宮第一摂社である側高神社も参拝しましたところ。「言わず語らずの神」である側高神社の分祠ではなく、香取神宮の分祠(しかも式外社論社)というのも、ふと矛盾を感じますが、土地の人も又これを信じて疑わないということですので、疑わないことにしましょう。広々とした境内は綺麗に掃き清められ、鎮守の杜の巨木の根の張りぶりは悠久の歴史を。開け放たれた拝殿内を拝見すると、氏子さん方の御奉仕の熱意を感じ、朱と青で彩色された御本殿(拝殿から瑞垣が御本殿前部までという形式は珍しい)もまた優美なる造営でいらっしゃいます。