小間子牧の歴史を感じる。
小間子馬神社の特徴
江木地区は江戸時代の下総佐倉牧の跡地で歴史があります。
小間子馬神社は明治26年に建立された由緒ある場所です。
祭神にはスサノオノミコトや少彦名神が祀られています。
お詣りした日:令和5年10月23日駐車場:有るようですが、普段は閉じられているようです。鳥居の前に1台は、停められそう。私は、本殿裏側の広い砂利の駐車場が、八街市立幼稚園のようだったので停めさせていただきました。本殿は、ほんと朱色がはえます。正面の上、両側に馬の彫り物のような物がはられています。目が光っているように感じます。撮った写真が、赤が強くて不思議です。
天正10(1582)年3月12日、小間子吉田原(おまごよしだばら)の戦いがあったそう。●山武市椎崎の椎崎氏と、千葉市土気の酒井氏が、四木から東吉田にかけて戦い●四木の馬神社付近で戦が行われ、圧倒的に酒井氏優勢のまま椎崎勢が敗走し、谷津が死人で埋まったという。●椎崎氏の殿が文違で態勢を整え、再度酒井氏と戦うも、再び敗れ、飯櫃(いびつ)城に向って落ち延びたという。●この戦で、滝台四木境付近に「死人谷(しびとさく)」、文違に「陣場(じんば)」という地名が生まれた。●敗走兵が飯櫃城に向かうはずが、飯積(いいづみ)城に向ってしまい、道を踏み違えたことから「文違」という地名が生まれたとも言われる。それ以前に「ヒジカヤ」と記載された古文書があるので、「違」という漢字を充てた由来なのかもしれない。
明治二十六年四月三日の建立。「八街太郎防 大津東町分霊小間子馬神社」が正しい名称で、 滋賀県大津馬神神社の分霊である。祭神は素葵鳴命、少彦名神、祓戸四柱神で、境内には子安神社も併祀されている。当地、太郎坊の名は、太郎防から転じたもののようで、馬神社の守札にも防の字が当てられている。このあたりは天正十年(一五八二)、小間子吉田の原の戦(土気の酒井氏と椎崎城主の椎崎氏の戦)のあった所で、附近には凌台とか死人谷等戦いにゆかりのありそうな地名も残っている。昭和六十二年十月社務所改築。境内には附近住民の寄進による数個の力石がある。【現地案内板より抜粋】真っ赤な社殿と、馬の像、隣の園児の声が特徴的なお社です。駐車スペースはありません。
祭神はスサノオノミコト、少彦名神、祓戸四柱(比売神三柱と男神一柱)戦後に収容された伯父が生きて帰れますようにと祖母は素足でお百度を踏んだという。最終引揚船で無事に伯父は帰ってきた。地元の信仰の厚い神社。毎月1日と15日の早朝のみ御神体に清掃が入る。1時間30分チャリをこいで御神酒を奉納するのに何とか間に合いました😀
桜の花はキレイ。
名前 |
小間子馬神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.0 |
周辺のオススメ

この馬神社のある江木地区を含めた八街市南部は、江戸時代に下総佐倉牧の中の小間子牧(おまごまき)があった場所です。徳川幕府は軍馬の確保を主な目的として、広大な下総台地に幾つもの牧場を造営し半野性の馬(野馬)を放牧していました。明治時代になると幕府体制が終わり、他の牧と同様に小間子牧も廃止され、新田開発が始まりました。八街という地名は八番目の開墾村だった事に由来しています。この小間子馬神社は、牧の込があった場所に明治26年に建立されました。境内には野馬の像があり、社殿に向かって左側には牧の名残りの野馬土手があります。