歴史を刻む教会、貴重な遺産。
川口居留地跡の特徴
大阪川口居留地の歴史が息づく貴重な場所です。
煉瓦造りの川口基督教会が一際目を引くスポットです。
安治川と木津川の合流点近くに石碑が静かに佇んでいます。
この教会聖堂は阪神大震災の時に半壊の後再建された教会です。 ミサの日と時間が解れば😃許可を頂いて入る事は可能です。川口居留置は大きな船付き場港を造る予定が川が浅く深く大きな船を接岸する工事のお金がかかる為諦めて大阪湾に移動この場所は使えなかった場所。
慶応4年7月29日(1868.9.15) 居留地26区画が外国人に競売され、大阪川口居留地の歴史が始まった。居留地に接する本田・富島・古川・梅本町も外国人雑居地となった。明治19年(1886)には10区画の増設があり、明治32年(1899)7月に居留地が撤廃されるまで、この付近は洋館や教会・学校などが並び、外国人が散策するなど、大阪の文明開化を象徴する場所として、異国情緒豊かな雰囲気を漂わせていた。上図は居留地の建物の推定復元であるが、必ずしも同年代ではない。碑の位置は雑居地の場所にある。と石碑!?に書いていました!
安治川と木津川の合流点近くにさりげなく石碑が立っています。かつての外国人居留地の跡。居留地として使われた期間が短かかったためか、石碑以外に遺構は少なく、レンガ造りの古い教会が残る程度。この場所に立って昔の様子を思い浮かべるのはかなり難しくなっています。
川口基督教会 煉瓦造りの建物はこの一軒だけでしたが信者の女性が写真などを見ながら教会の歴史を説明してくれましたありがとうございます。
外国人(イギリス、アメリカ、ドイツ、オランダ、フランス)居留地だったことがわかるのは、この碑しかありません。本田(ほんでん)小学校隣にひっそりとあります。
川口居留地の歴史は明治初年から明治中期までのわずかな間だった。居留地の模型図を見るとその栄華のときが分かる。しかしこの川口には致命的な欠陥があった。大型船が川口まで入ってこれないのだ。安治川の浅瀬と川幅のためだ。これでは商売はできない。で、居留地に住んでいた外人たちは大型船が自由に航行できる神戸に居を移して行く。当時、川口にあった西洋建築は、最終的に空襲で消滅してしまう。ここら辺を歩いて居留地跡を探そうにも、川口教会を除いて皆無だ。教会の前に煉瓦造の建物があるが、これは名残りだろうか。いまは悲しいかな、居留地の面影は一本の石碑と教会のみ。他に富島天主堂跡碑があるがあまりにも目立たない。居留地は歴史の荒波に飲み込まれ、完全に姿を消したようだ。
歴史ある場所とは知らず。碑がなければ気づかなかった。
近くに立派な教会がある。
なんで、全部壊してこんなに変哲もない街並みにしてしまったんだろうか。
名前 |
川口居留地跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.4 |
周辺のオススメ

リバークルーズで通過中に案内がありました。左側に見えるあたりに1868年から1899年まで外国人居留地があったそうです。今は教会以外は何も面影がないそうです。船から見ても普通の街並みでした。