伝説の地で大友皇子の足跡を追う。
(伝)大友皇子の陵の特徴
伝説にまつわる大友皇子の歴史が楽しめるスポットです。
徒歩数分の平坦な道を通り、リフレッシュしながら訪れることができます。
小さな橋を渡り山道を歩けば、歴史の息吹を感じることができます。
けっこう山道を歩きます。
今はレプリカが飾られてます。実物は近くの石雲寺にあります。
当地の伝説によると、天智天皇の第一皇子・大友皇子は、壬申の乱で敗れたが、百済の若者を身代わりに自害したと偽り、僅かの従者を率いて近江国山崎を逃れ、この地に隠れ住み、淋しい生涯を閉じたとされている。当初、墓所には遺言にしたがって皇子が生前に愛された松が植えられたのみであったという。後に諸国行脚の僧、華厳法師が日向の地を訪れ、養老二年(718)皇子を開基として医王山雨降院石雲寺を建立した。その後、鎌倉時代に里人が五層の石塔を皇子の墓として、その他の五輪塔を従者の墓として建立したと伝えられる。
名前 |
(伝)大友皇子の陵 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
http://www.city.isehara.kanagawa.jp/bunkazai/docs/2013060300063/ |
評価 |
3.7 |
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道路から小さな橋を渡ってほぼ平らな道を徒歩数分の所にあります。日本の歴史の中でただ一度だけの、皇族同士が鎧冑を着けて戦った壬申の乱で敗者となった大友皇子を祀ったとされる陵墓です。レプリカの石造五層塔が置かれているだけの寂しい場所で、しかも実物の塔は文化財保護のため、近くの石雲寺の本堂に安置されているそうです。西暦672年に25歳の若さで自害し、その後明治時代になってやっと弘文天皇という名前が贈られるまで1000年も不遇の時代を過ごしたことになる皇子。あくまでも「伝」であるため、皇室がこちらを整備することはないのでしょうか。 すぐそばの浄発願寺の三重塔があまりにも立派で目立つうえに、日向山荘というキャンプ場の脇にあるこのお墓はとてもみすぼらしく見え、涙を誘います。