橘逸勢卿の終焉地、桜舞う。
橘逸勢神社の特徴
橘逸勢卿を祀る神社で、平安時代の貴族の軌跡を感じます。
国道362号沿いに位置し、道沿いの岩が特徴的です。
早咲きの桜が美しく、夜にはライトアップされ魅了されます。
道沿いに、岩が積み上げられ見惚れました。階段を上がると神社があります。橘逸勢の供養につとめた娘の妙沖尼の観音像が境内にあります。父娘一緒に祀られていて羨ましい。
山道を車で走行中、桜の花がきれいに咲いていたので立ち寄りました。砂利の駐車場があり、急な石階段を少し上るとそこに銅像などがありました。訪れる人は多くなさそうですが…きれいに整備されていました。
こちらは、三筆として、9世紀頃に活躍した、空海(くうかい)・嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)の内、橘逸勢卿をお祀りしています。何故京の都の公卿が、三ヶ日に祀られているのか、前からの疑問でしたが、遠流の際にこの辺りで亡くなられたそうで、お墓もあります。字が綺麗でない私にとって、三筆は子供の頃から気になる人でした。お詣りでき、ありがっ様です。
橘逸勢(たちばなのはやなり)を祀る神社。三筆(空海、嵯峨天皇、橘逸勢)の一人。延暦23(804)年遣唐使として空海、最澄とともに入唐(西安)。唐人から「橘秀才」と称せられた。境内に「橘秀才」と称える西安市の石碑もある。帰国後従五位下(後に従四位下)に叙せられ、承和7(840)但馬権守となる。その後、承和の変で捕らえられ伊豆に流罪と決まったが、護送の途中遠州で病死した。泣きながら後を追って来た橘逸勢の娘(12歳)は、父が亡くなったことを知り、その地で冥福を祈り9年間に渡り般若心経を誦経したとされる。父のために誓念する姿に、旅人達が涙したと伝えられ、その声は山川一木一草に至るまで染め尽くし、天地明神の感動するところ遂に天朝に達したとされる。せつない話しだが、現在は新しい祠、観音像、石碑等きれいに整備管理されていて嬉しく思う。
国道362号を本坂トンネルから東に行くとやがて左側にあります。急な階段を登ると小ぶりな鳥居、奥に祠があり、良く整備されていました。境内には筆塚がありました。
早咲きの桜がとても綺麗に。
嵯峨天皇、弘法大師(空海)と並び「日本三筆」とされる、平安時代の貴族であった橘逸勢(たちばなのはやなり)は、空海・最澄らと共に遣唐使として唐に渡り、帰国後は琴と書の第一人者となりました。老いと病のため静かに余生を過ごしていた逸勢でしたが、突如「承和の変」に巻き込まれて謀反人の汚名を着せられ、伊豆に島流しされる途中、板築駅(ほうづきえき)にて60余歳で病死しました。京から橘逸勢を追ってきた娘は、逸勢を葬ると出家して尼となり、妙冲(みょうちゅう)と号して父の供養を続けました。ここ橘逸勢神社では、祠、橘逸勢の墓、妙冲を讃えた旌孝碑(せいこうひ)、妙冲観音像、筆塚等を見ることができます。妙冲の孝行は都にも伝わり賞賛されたことが続日本紀にも記されているそうです。ちなみに「橘逸勢神社を参拝すると字がうまくなる」と言われていますが、私に限りまだ御利益はないようです。さて板築駅の場所は、ここ三ヶ日町本坂か袋井市上山梨のいずれかとされています。橘逸勢神社から東に1.5kmの華蔵寺付近に「板築駅」の案内板があり、さらにその近くには板築山もあるので、私としてはここ本坂である可能性の方が高いと思います。しかし念のため、私は橘逸勢の供養塔がある袋井市上山梨の用福寺にも併せてお参りしてきました。〔注〕「ほうづき」および「本坂」は「ほんづき」から転訛したものだそうです。
日本三大執筆者のうちの一人。
地元過ぎて普通。手前は納経堂。
名前 |
橘逸勢神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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キレイに掃除がされてました。車は近くの信号交差点の案内看板前に停めれます。電話ボックスが目印。