小倉城傍、白洲灯台の歴史。
白洲灯台岩松翁記念塔の特徴
小倉城内に佇む、灯台の形をした記念塔です。
岩松助左衛門が私財を投じて建設を試みた場所です。
船の遭難を減らすために尽力した功績を讃えています。
小倉城を観に行き、廻りに何があるのか気になり、廻りを拝見していたら、白洲灯台。ここに行き着きました。小さいようで意外と目立っていました。これは、岩松翁と云う人が、海難事故防止の為に設置しました。私は今日、小倉城に行き、初めてこの白洲灯台の事を知ったので、岩松翁、と云う人がどういった方なのかは、具体的には分かりませんが。然し、北九州市は、昭和38年に5市が合併して、今の北九州市になったんですね。合併してなかったら、大都市にはなっていなかったでしょう。この灯台も、海難事故を…と言って、確かに、その目的もあったかもしれませんが、小倉の街を見渡せる役割もあったのではないかな。と思われます。
8/4 木 16:31海難事故を減らす為、頼まれなくとも見過ごさず、孤立してでも私財を投げ打ち、世のため人のために、粉骨砕身した彼。想いが実ったのは彼の死後でしたが、その勇気と誠実さが私は大好きです。
有名ではないものの、海の災害を減らすべく私財を投入して大きな貢献を果たした方を讃えた建物です。小倉城だけでなく、こちらもぜひ!
小倉城内散策をして、小さな火の見櫓を見つけたと思ったら、「白洲灯台岩松翁記念塔」でした。かつて小倉藩沖、西方の白洲という所は岩礁であり、海難事故が多発、多くの人々の命を奪って「西国一の魔の海」と呼ばれる程でした。庄屋だった岩松助左衛門は小倉藩から58歳の時、海上御用掛難破船支配役を仰せつかると私財を投げ打って、灯台建設に尽力したそうです。灯台工事は明治新政府に引き継がれ、竣工は岩松翁が62歳で亡くなった翌明治6年で、その前にすでに奥さんや長男も亡くしてしまったという事です。完成した灯台を見せてあげたかったなと思いました。この記念塔は岩松翁が設計した灯台を模したもので、現在建っている白黒の縞模様の灯台とは全然違いますが、櫓のようで大変趣のあるものです。
お城の形をした灯台。
明治初頭、長浜(小倉北区)の岩松助左衛門は、小倉沖の白洲(しらす)付近で船の遭難が相次ぐ事を見て灯台を建てようと私財を投じ義金を募って建設にかかったが、私設灯台禁止により政府の手ですすめられ、完成前に灯台を見る事なく亡くなった。この塔は岩松翁が設計した白州灯台を模したものです。昭和38年、5市合併による北九州市誕生に合わせ翁の遺徳を偲ぶと共に水難救助のため尽くした功績を顕彰するためにこの地に建てられました。京町4丁目にある再顕寺(さいけんじ)には助左衛門の墓があります。
白洲灯台建設に命を懸けた岩松助左衛門はその完成を見ることなく亡くなってしまった。忸怩たる思いであったろう。その墓が西顕寺にある。生家と西顕寺の写真をアップして灯に当てたいと思う。
| 名前 |
白洲灯台岩松翁記念塔 |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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歴史を感じさせられる灯台です。