明治の薩軍、熊本へ立上がる!
明治10年2月(西南の役) 薩軍が立上がって熊本に向かうと、九州各地の士族達も薩軍と提携して政府を倒そうと一斉に立上がった。中でも熊本では、学校党に属する1400名が、22日早朝、健軍神社に集合して会議を開き、薩軍の熊本城総攻撃の砲声毄々と響く中挙兵と決した。同日夕刻、神前に神楽を奉して結成式を行い、池辺吉十郎を隊長に仰ぎ熊本隊と号した。ここに同隊が出陣の第一歩を踏み出した所である。熊本隊は、熊本の守旧派士族であった学校党を中心に結成されました。当初は薩軍への参加をめぐって粉糾していましたが、明治10年2月21日池辺吉十郎が単独で川尻にあった薩軍に投じたのを契機に、『禁闕(きんけつ)守護(朝廷守護)』の名目でまとまり、22日に健軍神社で挙兵。隊長・池辺吉十郎、副隊長・松浦新吉郎、参謀・佐々友房をを幹部に、隊員は十五小隊(後に十九小隊)に編制されていました。その参戦の目的は、『西郷の勝利を予測し、熊本での発言を増し、民権論を抑えて、欧米の横暴を排する』というものでした。党薩諸隊のなかで最大の隊員を擁した熊本隊は、高瀬の戦い(参照:玉名の西南戦争 )、田原坂の戦いに奮戦し、薩軍の敗北とともに矢部・人吉と後退、8月17日宮崎県長井村(現・北川町)で降伏した。佐々友房(さっさともふさ)生誕 嘉永7年1月23日(1854年2月20日)死没 明治39年(1906年)9月28日戦国武将、佐々成政の子孫。佐々友房は、熊本市内坪井町に肥後熊本藩士 佐々陸助の二男として生まれる。1877年(明治10) 西南戦争が起こると、池辺吉十郎らと熊本隊を組織して西郷軍に加わったため、10年の懲役に処せられた。1881年(明治13)病気のため赦免される。友房は、入獄中、今日の急務は青年子弟を教育し国家有用の人材を養うことであると考え、出獄後、同志数十人と私立学校創立を実行にうつし、同心学舎(明治15年済々黌と改名)を開校。1890年(明治23)、熊本国権党を率い、第一回帝国議会衆議院議員として立候補し当選を果たした。1906年(明治39) 53歳で他界するまで毎回当選し国家主義の政治家として活躍した。
| 名前 |
西南の役 熊本隊出陣の碑 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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お世話になりました。ありがとう。因みに整備されてきれいになっててびっくりしました。因みに佐々友房さんは済々黌を作った人でお墓は熊大黒髪キャンパスうらの小峯墓地に立派なのがありますよ。