スポンサードリンク
スポンサードリンク
名前 |
倉田水樋水源跡石碑 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.0 |
倉田水樋は延宝元年(1673年)に倉田次郎右衛門が設置したいわゆる「水道」です。ただし、浄水施設がなく、川の水をそのまま桶に溜めて木樋や竹樋で長崎市内に配水しています。配水は、当地から八幡町まで中島川沿いを開渠で引き、麹屋町をとって銅座町まで、一方は中島川を水樋で渡して大井手町から築町まで引いています。古写真や長崎水道百年史から考えるに、中島川(銭屋川)に堰を築き導水路を引き「倉田水車」を通して引き込んでいた模様です。江戸初期の長崎は国道34号線付近以外は全て海の下でしたので、埋築して街を作ったところで水が出ない。水は井戸頼みとなるのですが、各山裾には良い水が沸くのですがそれ以外は良い水が出ない。町の人達は良い水が出るところにお金を払って水を汲みに行っていた。または、水売りが回ってきていたので、お金を払って水を買っていた。そこで、倉田次郎右衛門の登場です。初代倉田次郎右衛門は1620年頃商売のために長崎へ来て晋代を築きます。2代目が晋代財産全てをかけて水道施設を作ったのです。持っていた家も船も売り払って水道施設。この「水道」も明治の本河内からの水道が供給されるまで使用されていますが、雨が降ったりしたら濁って使えなかったと、あまり評判も良くなかったようです。ただ、長崎の人達はこの「水道」と井戸とをうまく使って、明治の「水道」を迎えます。長崎は、この江戸期の人口爆発から、明治の人口増加、軍事工場増加は昭和初期まで続き、その後の戦後復興の間に水水水と水不足で苦労したことと思います。今も、渇水による水道配水制限も時々あるようで、今も続いています。ここに行くには、駐車場がないので、近くのコインパーキング等に止めて歩いていかれることをお勧めします。