沖縄戦の歴史を感じる場所。
伊良波収容所跡の特徴
伊良波収容所跡は、本島南部の激戦地に由来する歴史的な場所です。
米軍によって設置された一時的な収容所として重要な役割を果たしました。
沖縄戦終盤の歴史を感じることができる貴重なスポットです。
ここにあった伊良波収容所は、沖縄戦終盤、集落北側に米軍によって設置され、主に本島南部の激戦地でとらえられた人々が最初に送られた一時的な収容所であった。
| 名前 |
伊良波収容所跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP |
https://www.city.tomigusuku.lg.jp/soshiki/8/1035/gyomuannai/3/2/1/360.html |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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伊良波集落北側に米軍によって設置され、主に本島南部の激戦地でとらえられた人々が最初に送られた一時的な収容所。ここでは検査や尋問、応急手当などを受けたあと、数時間~数日という短い収容期間の後、民間人だと沖縄本島中部の野嵩・安谷屋・越来などの各収容所へ、軍人の場合は金武の屋嘉収容所などへと再び移送された。伊良波収容所は簡易な「金網」で囲まれ多数のテントが立ち並ぶ収容所であり、主に民間人が数多く送り込まれた。検問で取調べを受けた後、負傷の有無を始め、性別、民間人か否かに選り分けられ収容された。一部金網の外にも人が溢れていたという証言もあり、当時集落部分も含め伊良波周辺一帯が収容施設として機能していたことが推測される。こうした一時的な収容所は豊見城では伊良波集落南側の当貴原や近隣の座安、与根、田頭地区等にもあったことが分かっているが、これらの場所に設置された理由は1945年6月初め以降、豊見城地内のほとんどの日本軍が南下撤退し米軍との遭遇戦の危険性が比較的少なかったことと、激戦地から難民や捕虜を送り込む場所として交通の便や立地性に適していたからと推測されている。日本軍の組織的抵抗がほぼ終了したあと同年7月以降、収容所機能は徐々に消滅していった。体験者の証言に数多く登場する「伊良波収容所」跡は沖縄戦の記憶に深く刻まれた場所のひとつであり、戦後復興の第一歩を踏み出した場所として後世に語り継がれる重要な場所である。