明智光秀の足跡に触れる。
勝龍寺城跡の特徴
明智光秀が最後に立ち寄ったのが勝龍寺城跡です。
駐車場が無料な上に資料館まで近い便利さがあります。
整備された公園では鯉に餌やりが楽しめる空間です。
長岡京駅の近くにある城趾です。天守閣は再現されていませんが中は資料館になっています。
明智光秀が最後に立ち寄った城。秀吉軍に攻撃されず、良く破却されなかったものだ。模擬天守が資料館として復興している。天守周りの掘りや城壁が復元されていて見応えがある。歴史戦国好きなら、是非立寄るべきと考えます。
綺麗に整備されていてゆっくりと静かな時間を過ごせます。ソメイヨシノ、ウメ、キリシマツツジなど、季節の花々も楽しめます。無料駐車場や水汲み場もあります。
再現した城跡公園です。天守閣は再現されていません。すごく綺麗です。外からお堀を眺める景色がいいです。資料館は無料です。JR長岡京駅からも徒歩圏内です。資料館は細川藤孝、忠興、ガラシャ、明智光秀について展示されてます。桜の季節がきれいみたいです。お城記念コインはありません。御城印は休日は発売してるみたいですが、平日は売ってません。近くの神足ふれあい町家で購入できます。歩いていけます。レストランやお土産コーナーはありませんので、ふれあい町家でご休憩を。
元々、この辺りは西国街道や京に通じる交通の要所であり戦国時代以前から度々、合戦があり勝竜寺が防御拠点となり要塞化されたのが勝竜寺城となります。織田信長の命により長岡藤孝が改修工場をし堅固な城となりました。明智光秀の娘、お玉が長岡藤孝の嫡男、忠興に輿入れをしました。山崎の合戦に敗れた明智光秀が本拠地の坂本城に逃走する前に勝竜寺城に逃げ込んた城てもあります。現在は綺麗な公園になっており石垣や土塁が残っており細川忠興とガラシャの銅像が仲睦まじく一緒にお出迎えしてもらえます。
住宅街の一角にある為少し分かりにくい場所にあるが、大河ドラマの舞台にもなるので、平日でも多くの方が来られていました。発掘調査では堀と土塁・野良積みの石垣の一部ぐらいしか出て来ていないので、建物などは推測の域を脱していないが、城郭的な雰囲気が出ている外観は、良い感じです。堀沿いに奥へ進むと 沼田丸が有り、今は芝生広場になっていて地元民の憩いの場でもあるのかなぁ? 車も数台止められるスペースも有りますが、ガラシャも飲んだであろう地下水が蛇口を捻れば何時でも飲めるようになっているので、地元の方達がひっきりなしに汲みに来ているので止められないこともあります。
明智光秀、細川幽斎、細川忠興、細川ガラシャのことがよく分かります。
室町幕府将軍足利義輝、義昭に仕えた後、信長の家臣になった藤原藤孝が信長の命令により、勝龍寺城を当時最先端の城郭に改修する。★信長の意向により藤孝の子細川忠興が同じく16才の明智光秀の娘玉(ガラシヤ)と1578年8月勝龍寺城で結婚。★1582年6月2日父光秀の本能寺の変で丹後味土野に幽閉されるまで仲睦まじく勝龍寺城で過ごす。★1582年6月4日信長の死を知った秀吉羽柴勢4万が、6月13日1.5万の明智勢と合戦の火ぶたが切られ山崎・勝龍寺の戦いで劣勢になり、細川父子に助けを求めるも断られ多勢に無勢の明智勢は数時間で敗れ勝龍寺城に退き、深夜再起を期して北門から脱出するが、山科・上醍醐付近で落命する。★一方玉は2年余りの幽閉後、天下人となった秀吉の取りなしで1584年大阪玉造の細川屋敷に移る。★夫忠興からキリシタン大名のの話を聞きその後興味を持つようになり、救いを求めるようになり、1587年洗礼を受けガラシャという洗礼名を授かる。忠興に入信を告白したのは1995年との事。★その後1600年夏関ヶ原の戦いの前夜。秀吉の側近だった石田三成が、家康側に忠興がついたことでガラシャを人質にしようと大阪玉造細川屋敷を包囲するが、ガラシヤはここで自害する。1年位経ったかな。住宅街の中にある崇禅寺。ガラシャのお墓がある所。あまり長居は出来なかったけど近くまで来たのでやっと来ることが出来た。来れて良かった(*^-^)今度はもう少しゆっくりした時間を、とりたいかなと思う。
住宅街の真ん中に気合い入れて整備したお城と公園で驚き。大きさは小さいです。中の映像含めた資料は少し物足りない。福知山は光秀推しでしたが長岡京はガラシャ推しなのかな?ナビがガラシャ通りって言うから驚きました。重要拠点だったのでもっと資料が充実して欲しいな〜
名前 |
勝龍寺城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-955-9716 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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2019/4/13遺構としての最大の見所は隣りの公園との境の土塁と神足神社にある土塁、堀跡か。明智光秀が山崎の戦いで本陣とした城。