静かな隅寺で十一面観音の美を堪能。
海龍王寺の特徴
遣唐使・玄昉が創建し、平城京の東北隅に位置する古刹です。
秘仏の十一面観音立像が特別拝観で鑑賞できる美しいお寺です。
国宝五重塔や重要文化財を有し、霊場として歴史を感じる場所です。
大和路秀麗八十八面観音霊場でお参りしました。十一面観音の特別拝観でご尊顔させて頂きました。長い間秘仏だったということから細部の色彩がよく見て取れました。五重の塔小塔も初めて見ましたが昔の人の技術の高さはすごかったと大きな塔よりも感じました。
とても静かでホッとするお寺でした。残暑厳しい日中でも心が落ち着く一時でした。膝をやってなければ座って仏様を拝みたかった。
十一面観音立像の美しさ🙏ゆっくりお詣りさせていただきました。よいお寺です。海の安全も祈らせていただきました🙏
十一面観音立像の特別拝観に合わせて参拝させていただきました。十一面観音立像はとても美しい仏様ですが、堂内に設置されている、国宝五重小塔も必見です。
偶々、通りかかったら、秘仏ご開帳でした。ほんと、素敵な仏様で、次の日、家内を連れて再訪問。御朱印もいただきました。
海龍王寺の縁起古刹七一〇年(和銅三年)、平城京に都が移された時、藤原不比等が、 ここに邸宅を構えるにあたり、付近一帯を治めている土師氏から 土地を譲り受けた際、土師氏ゆかりの寺院がありましたが、寺院 を取り壊さなかったので、邸宅の北東隅に残ることとなります。 七二〇年(養老四年)、藤原不比等が亡くなり、娘である光明皇后 邸宅を相続したことから邸宅は皇后が起居する皇后宮となり、北東隅の寺院は「皇后宮内寺院」となりました。 七三一年(天平三年)、遣唐留学僧として唐に渡っていた玄昉の帰国をひかえ、無事に帰国を果たし、最新の仏教・仏法を我が国に伝えることを願われた光明皇后は『皇后宮内寺院』の伽藍を整え られます。隅寺 (海龍王寺)としての歴史は、ここから始まりま した。七三四年(天平六年)を出発した、東海に遭遇いたしますが、 いながらも海龍王経を一心に唱えたことで九死に一生を得て種子島に漂着し、七三五年(天平七 年) 平城宮に戻ってまいります。聖武天皇・光明皇后は、最新の仏教の仏法のみならず、国家の基礎となる仏教政策も学び取っ てきたから、いつでも自由に意見を求めるため、内装に近く、自身が起居する内にある 海龍王寺住持に任じます。 持に任じられた玄時は、唐のにならい、海上寺を「平城 内道場」と定め、伽藍の拡充および収蔵する経典などを充実させる一方、密教にも通じていたこと から、聖武天皇・光明皇后、聖武天皇の生母である藤原宮子のために祈願をしたことで 天皇家との関わりが非常に深くなった海龍王寺は「天皇家の私寺院」となり、「寺」として 天皇家を支えてゆきます。奈良時代は「宮廷寺院・宮中内道場」として繁栄いたしましたが、平安京に移ると、平城宮の 衰退と並ぶように海龍王寺も衰退いたします。鎌倉時代を迎え、真言律宗のである 在をきっかけに伽藍の復興が進められ、戒律の道場として栄えます。 三六五年(真田四年)から 一七六六年(明和三年)の間、海龍王寺から五名の西大寺長老を出し、真の中でも筆頭格の寺院になりました。鎌倉時代は戒律の道場として栄えたものの、室町時代に起こった応仁の乱の影響を受け、江戸時代 まで衰退が続きます。江戸時代になり徳川幕府から知行百石を与えられたことで伽藍の維持・管理 を行っていましたが、明治の廃仏毀釈の際、東金堂および什物を失うなど大きな打撃を受け、その 後、昭和二八年まで荒廃にまかされておりましたが、昭和四四二年にかけて西金堂・経蔵の 解体修理を行い、現在に至ります。暴風雨の中、海龍王経を唱え、無事に帰国を果たした玄が持に任じられたことで、聖武天皇か 寺号を海龍王寺と定められ、遣唐使の渡海安全祈願を修することになりましたが、 海龍王寺に残 されている海龍王経には、東シナ海を渡った奈良時代の人々の思いが刻まれています。また、若心経の流布・講釈を熱心に行ったことから、海王寺において般若心経の写経が 盛んに行われ、隅寺心経と称される般若心経の写経が現在も海龍王寺に残されており、般若心経 原本として大切にされています。国宝・五重塔、重文・西金堂は『光明皇后宮内に残る唯一の奈良時代建造物」であり、「宮廷寺院」の伽藍を現在まで伝えています。パンフレットより文字起こし。
十一面観音菩薩は仏堂にあり撮影禁止となっています。しかし、門に飾られていたポスターがカッコよかったので撮影させてもらいました。仏教用語でMERCYとは「あわれみ、慈しみ」という意味があるそうです。無料駐車場があります。しかし、特別拝観時は満車で停められないことが多いです。時間に余裕をもって拝観くださいませ。
一歩入るだけでとても静かで、なぜか心安らぐ場所。こじんまりとしているがとても美しい伽藍。リヴァイアサンはいない。ただまんざらそうでもなく、海龍王経を唱えたこと、それが由来で海龍王寺となったことに由来して寺には龍をモチーフとしている。仏教で龍はポピュラーなのでそれとリヴァイアサンが重なったのだろう。非常に落ち着く場所であることには違いない。
古くて小さなお寺さんですが、ここの秘仏の十一面観音様は日本一美しいと思う。公開されている期間は手を伸ばせば届く距離で拝むことができます。
名前 |
海龍王寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0742-33-5765 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.2 |
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海龍王寺は天平3(731)年、遣唐使として中国に渡っていた初代住持の玄昉が、一切経と新しい仏法とを無事に我が国にもたらすことを願い、光明皇后によって創建されたとも伝わっており、お寺の場所が平城宮の東北の隅に当たることから「隅寺あるいは角寺」とも呼ばれている。玄昉が唐より帰国の途中、東シナ海で暴風雨に襲われた際に、海龍王経を唱えたところ、かろうじて種子島に漂着し、奈良の都へ無事に帰ることが出来たことがきっかけで遣唐使の無事を祈願する寺院となり、現在も旅行・留学に赴く方々の信仰を集めている。境内には創建当初からの建物である、西金堂(重要文化財)と、堂内に安置されている高さ4mの五重小塔(国宝)が残り、特に五重小塔は天平時代に作られた塔の中で、唯一現存している五重塔として価値が高く、西金堂とともに天平時代の建築様式を現代に伝える貴重な建物となっている。江戸時代に建てられた本堂には、鎌倉時代に造立された本尊の十一面観音立像(重要文化財)が安置されているが、昭和28年までは秘仏となっていたせいか、保存の状態が大変良く、たくさんの装身具を身につけていることに加え、切金文様がふんだんに使われた衣の文様や模様と相まって、華麗なお姿となっている。