熊谷次郎直実像、歴史の息吹。
「熊谷次郎直実」北村西望の特徴
北村西望が手掛けた熊谷次郎直実の見事な彫刻です。
熊谷駅前に君臨する騎馬武者像が目を引きます。
敦盛の最期に関わる歴史的意義を持つ作品です。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて活躍した熊谷次郎直実の立派な像です。直実は武勇に優れ、平山季重との戦功争いや、平敦盛の逸話などが知られており、源頼朝に仕えた武士としても知名度は高いそうです。浄土宗開祖である法然と運命的な出会いを果たし、後に僧となった直実の人生は当時の武士の価値観などを知る事ができる事象であり、非常に興味深いと感じました。昼間の直実像はよく知っていましたが、先々月ぐらいの夜に訪れたら像がブルーマウンテン色に輝いていたので大変驚きました。熊谷はとても暑い地なので、駅を利用する方々を視覚的に涼しくなってもらう為でしょうか。青白く光る直実像は中々のインパクトありなのでおススメです。
酔っ払っても上に乗ったらアカンっすよ。
熊谷駅の前で夜はライトアップされてる素敵な像です。以前、息子の同僚が酔って直実の後ろに跨り警察に捕まったそうです。その時同僚が「コイン入れる穴はどこ?」と言ったとか。良い子は真似しないで下さい。
一ノ谷の戦いでは、自分の子供程の若武者をここで逃がしても仲間に討ち取られる。「為らば、この直実がお討ちしお弔いしましょう」この若武者は首実検で清盛の甥、 敦盛であることが分かった。年端も行かぬこの青年の菩提を弔う為、出家を覚悟した直実。直実は浄土宗の開祖法然上人に弟子入りをし出家名を法力房蓮生と名乗る。後に熊谷に草庵を拓きこの地が熊谷寺となる。師の法然上人は幼名を勢至丸と云い、侍であった父は刀傷がもとでこの世を去ってしまう。病床に伏す父は勢至丸に父の敵討ちを禁じて世を去ってしまうのであった。仇討ちをすれば、その仇討ちが又あらたな仇討ちを生み穢れた世になることを父は心配してのことで有りました。そして出家修行のため比叡山で天台教学を學んだ法然上人はやがて浄土の教えを得て山を下り浄土宗開祖となりました。刀傷沙汰から出家への道は勢至丸も直実もあったのですね。その歴史を顧みて、熊谷次郎直実の銅像があるのです。作者は長崎の平和祈念像を作ったりもしていますね。ところで、この銅像は誰が作ったのでしょうか。皆さんがお気付きの長崎県出身の彫刻家、北村西望作の銅像なんですよね。 観光地の銅像を見たら作者を知るだけでも造詣を深めらますね。興味深いのは、彫刻家の北村西望(せいぼう)は本名なのです。宗祖法然上人や蓮生坊は浄土宗のお坊さんですが崇め奉る本尊様は阿弥陀如来で未来佛ですね。市井の人々は亡くなった後、西方極楽浄土の国へ逝きたいと願い、西を望み南無阿弥陀と唱えて信心しているのです。阿弥陀如来がいらっしゃる方角の西を望む事と北村西望「西を望む」は理由があってつけられた名前なのかなぁ~って思いませんか❔北村西望の名前の由来を御教授願えたら喜ばしいことです🙇合掌🙏令和四年六月朔日。
熊谷次郎直実くまがいじろうなおざねと言う。しかし、ここはくまがやくまがいではない。さらに熊谷寺はくまがやでらでもくまがいでらでもなくゆうこくじ。なんで〜?多分、くまがやの昔の人はこだわりが強い?へそ曲がり?
久しく「直実ぶし」を聞いてませんが、懐かしいです。資料によると、熊谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠地とした。熊谷直貞の次男。『平家物語』「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎討ちは、直実は敦盛とともにこの故事の主人公として、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』といった作品に取り上げられている。とあります。
駅前に建っている騎馬武者像。一ノ谷で平敦盛を打ち取ってしまった直実。戦後悔やんで出家したとか。武士とは罪深いですな。
平家物語の敦盛の最期にかかわる武将の像です。
Beautiful sculpture of the samurai. This place tells a story of historical significance.
名前 |
「熊谷次郎直実」北村西望 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
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直実像の作者は、北村西望。1884−1987。長崎生まれ。代表作に[長崎市原爆中心地建立平和祈念神像](1955)テレビでも良くでてくる有名かつ素晴らしい像は文化勲章 (1958)ですから熊谷次郎直実は郷土の誇りに相応しい、あっぱれな作者に像を作ってもらいました。直実熊谷次郎直実像の背中を撮って見ました。後ろ姿もイイ(≧∇≦)b 以下前回の投稿 中天に上った(ほぼ)満月を愛でるかのように騎上の直実公の頭上に掲げた扇子。春の宵の夢のようなワンシーンでした。しかしこの像は、うら若き平敦盛を差し招く挙扇の直実という、武勇の誉れ高い直実の、敦盛を討ちとり後出家した心も映しているのかも知れません。