掃部山公園で井伊直弼に逢おう。
井伊直弼銅像の特徴
掃部山公園にある井伊直弼の銅像は、観光名所として非常に人気があります。
横浜港を見下ろす丘の上に位置し、歴史を感じられるスポットです。
銅像のある公園は、幕末の大老の歴史を学ぶことができる場所です。
掃部山公園には、幕末の大老で日米修好通商条約を締結し横浜開港へと導いた井伊直弼の銅像が建っています。像が建立されたのは横浜開港50年を迎えた1909年。建立には相馬永胤(旧彦根藩士・横浜正金銀行頭取)が関与し、像の台座は妻木頼黄が手がけました。今でこそ埋立地の上にみなとみらいが広がっていますが、井伊直弼像は横浜の海、太平洋を眺める方を向いております。
掃部山は、幕末期に神奈川奉行所のあったところである。この公園には彦根藩の井伊直弼の像がある。大老であった井伊は、米国との間で日米修好通商条約(1858年、1860年批准)を締結したが、結果的に当時同条約の天皇の勅許(1865年)を得られなかった故に、雄藩を中心とする尊王攘夷派を刺激し、安政の大獄(1858年)を招来することとなり、桜田門外の変(1860年)で命を断つことになってしまった。しかし、結果的に徳川幕府は終焉を迎えることとなり、小さな農魚村であった横浜の開港(1859年)は実現、日本は開国(1854年)となり、井伊の選択は、日本の時代を推し進める原動力となったのではとも考えられられる。その意味では井伊の死は蛇足であり、その後も井伊直弼が生きていたとしても、今の日本は存在し得なかったのか分からないが、徒にその後も反対派を刺激してしまったことが、彼の寿命を縮めてしまうこととなったのではと思われる。こうした経緯もあり、時代は明治と変わるも、ここ横浜の地に元彦根藩の有志より井伊直弼の像を建てた時も、時の明治の維新政府の同意を得られなかったそうであるが、今は横浜市が綺麗に公園として管理しており、横浜市民の憩いの場となっており、ここに来ると複雑な気持ちにさせられる。
井伊直弼像に逢いに行きました。壮大な像で、立派です。駅から徒歩圏内ですが、もみじ坂が難所、公園入り口にもわずかですが階段がありクタクタになります。周辺には、特に寄り道する所は無さそうです。
日米友好通商条約を結ぶなど、横浜の開港に非常に大きな影響を与えた人物。かなり大きな銅像です。
横浜能楽堂横にある掃部山公園⛰その中に井伊直弼の立像がドッシリと構えています。午前中に訪問したため陽射しが背中側から差して後光効果がありました。少し入り込む場所なので人は少ないですね!
あなや!海が見えぬ。
江戸時代までは不動山と呼ばれ、鉄道開通によって鉄道山と呼ばれ、今は掃部山公園となったようです。開国の立役者、歴史の有名人、井伊直弼が今も横浜の街を見守ってくれているようで心強さを感じます。銅像を作るまで沢山の彦根の人々の尽力があったようで、井伊直弼の偉大さを再認識します。
駅でいうと桜木町駅近くに掃部山公園という公園があります。「かもんやま」と初めは読めませんでした。横浜港を見下ろす高台の頂上に井伊直弼像が立っており横浜の歴史の移り変わりを静かに見守っています。桜の名所でもあるということなのでお花見の時期を待ちまた遊びにいきたいとおもいます。
横浜港を見下ろす丘の上の公園内にある。
名前 |
井伊直弼銅像 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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井伊直弼や掃部山については省略する。1909年に銅像が建立された際、四男の直安が水泉を寄付している。こちらは台座と一緒に横浜市の歴史的建造物に認定されている。近くの石碑は台座の背面にある説明を加筆・修正した内容になっている。