江戸時代の匠、狩野画塾の跡地。
狩野画塾跡の特徴
狩野派四家の繁栄を感じる歴史的なスポットです。
江戸時代の奥絵師、狩野四家の画塾跡地に位置しています。
みゆき通り近く、銀座での文化的な散策に最適です。
みゆき通りから昭和通りの銀座東5丁目交差点近くに「狩野画塾跡」があります。説明板には『江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探幽、尚信、安信の三兄弟を祖とし、「鍛冶橋」「木挽町」「中橋」と「浜町(木挽町の分家)」の四家すべての拝領屋敷が区内にありました。木挽町狩野家の祖・狩野尚信は寛永七年(1630)に江戸に召しだされ、竹川町(現在の銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。その後、六代・典信(号は栄川、栄川院ほか)の時に老中・田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸西南角にあたる当地に移って画塾を開きました。奥絵師である狩野四家の中で、もっとも繁栄した木挽町狩野家は諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人が数多く集まりました。門人のほとんどは、諸侯のお抱え絵師の子弟で、十四から十五歳で入門し、十年以上の修行を要しました。 修行後は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出されていますが、明治の近代日本画壇に大きく貢献した狩野芳崖や橋本雅邦などは、ともに木挽町狩野家十代・雅信の門下生です。令和三年七月中央区教育委員会』と書かれています。
看板のみありました。
ビル工事の壁に、はってありました。僕も塾と名がつく組織を経営しておりますが、コンセプトがだいぶ違います。京都原派の原在中が好きなんですが諸説あって狩野派の毛色が入っているかいないか素人にはわかりゃしませんが多くの画に、決定的なイメージを与えた狩野派でざいます。
2020/2 来訪。
江戸時代の奥絵師(幕府や諸大名に仕えた絵師・御用絵師)であった狩野四家のうちの、木挽町狩野家は此処に画塾を開いたそうです。
狩野派四家の中でもっとも繁栄した木挽町狩野家の画塾がありました。この流派からは狩野芳崖や橋本雅邦らが輩出されました。
| 名前 |
狩野画塾跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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言葉に表せないほど、凄かった😀