忠臣蔵の歴史、田村屋敷跡。
浅野内匠頭終焉の地の特徴
忠臣蔵で知られる浅野内匠頭の切腹跡地です。
田村右京太夫の屋敷跡にあり、歴史を感じさせます。
新橋の静かな通りに位置し、訪れる価値があります。
昔から忠臣蔵の話は大好きだったのですがなんとこちらにやって来たのは今回が初めてなんですねー😅いやはや…お上りさんの哀しさか近所の和菓子屋さんで切腹最中を買ってからこの終焉の地を訪ねるのが作法とか💦ほんまに無知は嫌ですね~😔ま、しかし内匠頭さまーちょっと短慮でしたなー😓吉良さんにぶちギレるお気持ちはめっちゃわかりますが遺される家族や家臣はたまったもんじゃないですよーまぁ…小職ごときに言われんでもお分かりでしょうが😅それにしても今日は暖かいからか桜の花がポツポツ咲いてる切腹のときの田村右京太夫邸の桜は最高に咲き乱れてたんやろなー。
先日、切腹最中を購入した際、新正堂が、江戸城松の廊下で刃傷沙汰をおこした浅野内匠頭がお預けになり切腹した田村屋敷跡にあること、また、近くに浅野内匠頭終焉の地があることを知り訪ねてみました。浅野内匠頭は、幕府から、江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられました。刃傷沙汰に及んだ理由は諸説あるようですが、幕府の1年間の行事の中でも最も格式高いと位置付けられていた勅答の儀(天皇·上皇からの聖旨・院旨に対して将軍が奉答する儀式)の日であったため、幕府の権威を著しく傷付けたとして、即日切腹、浅野家はお取り潰し、一方の吉良側は、おとがめなしとなりました。史蹟には、辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」が書かれていて、吉良上野介を打ち取れなかった浅野内匠頭の無念の思いが伝わります。喧嘩両成敗を無視し、申し開きのいとまもあたえず、即日切腹という異例の決定が、後の赤穂義士(赤穂浪士)の討ち入りへつながります。前回は切腹最中を買いましたが、赤穂浪士に想いを馳せ、今日は大石内蔵助や堀部安兵衛などの武者絵が描かれた義士ようかんを買ってみました。
浅野内匠頭が江戸城松の廊下で刃傷沙汰松を起こした後、即日切腹させられました。その切腹の場所が、奥州一之関藩 田村右京太夫の上屋敷で、この場所に田村家の上屋敷がありました。以前は、田村町と呼ばれた場所でもあり、立派な石碑が建立されています。石碑の案内板には、浅野内匠頭辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」も記されています。近くの新正堂で切腹最中を買って、この地を訪れるのが定番なので、私も切腹最中を片手に訪問しました。美しく色づいた銀杏の並木に武骨な石碑が佇む様をただ眺めて帰ってきました。
忠臣蔵でおなじみの浅野内匠頭終焉の地の石碑江戸城内で刃傷沙汰を起こした赤穂藩主・浅野長矩の身柄を預かった一関藩主・田村建顕の屋敷跡元禄十四年3月14日(西暦1701年4月21日)幕府の1年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた勅答の儀を行う日の出来事江戸城内で刃傷沙汰があったのが巳の下刻(午前11時40分頃)↓こちらに移送されるのが決まったのが午の下刻(午後1時50分頃)↓江戸城不浄門より護送未の下刻(午後3時50分頃)↓申の刻(午後4時30分頃)田村建顕の屋敷着↓申の下刻(午後6時10分頃)宣告の後浅野長矩は即日切腹ことの始まりから半日もたたないできごとだったようです。隣りには寄り添うように桜が一本あります。風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残を 如何にとやせむ淺野内匠頭の辞世の句。
赤穂浪士が討ちいった吉良邸跡、回向院、泉岳寺にも行きました。浅野内匠頭終焉の地にも来られました。
3/14浅野内匠頭、無念の日にお参りに行ってきました。きちんとしたお花とお菓子が供えられていました。側に一本の桜の木が、優しくたたずむ姿にこちらまで慰められました。
赤穂浪士が好きな人は必見。
道を歩いていたら偶然発見。
親父が春先に慈恵医大で亡くなった。2週間で出てくる予定の簡単な入院治療。それがカテーテルからの細菌感染で元気な親父がわずか1ヶ月で還らぬ人となった。浅野内匠頭が切腹の前に「風誘う花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせん」春風に散ってゆくさくらも名残惜しいが、それよりもこの自分が今散ってゆくこの思いはいかに無念か!4月頭になぜかこな桜だけ花を付けていた。慈恵医大病院から新橋駅まで途中この句と桜を見ながら諦めと悔しさを抱えながら歩いた思い出の地です。
| 名前 |
浅野内匠頭終焉の地 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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この浅野内匠頭終焉の地がある場所は東京都港区板橋4丁目にあります。ここの場所は田村右京大夫の屋敷があった場所で、この場所で浅野内巧頭が切腹させられました。つまりこの場所が浅野内巧頭の終焉の地と言えるでしょう。ちなみに田村右京大夫健顕(たむらうきょうだゆうたてあき)は奥州一ノ関藩初代藩主です。