明暦の大火を見守る本妙寺。
本妙寺と明暦の大火跡の特徴
本妙寺跡地はかつて法華宗の大寺院でした。
明暦の大火の出火元がある歴史的な場所です。
江戸三大大火の一つの影響を受けた重要な史跡です。
現在巣鴨にある本妙寺がかつて旧菊坂82番の台地一帯にあった法華宗の大寺院であった。境内にほ遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元の墓所がありました。明暦の大火の元となった振袖火事がここが火元と言われているが定かではなく諸説ありとのことです。現在はお寺があったことが想像できません。菊坂を渡って反対側にはこの寺院の名を取った坂がありますこの坂は菊坂の途中から本郷小学校に向かう坂です。
明暦の大火 振り袖火事の出火元といわれた場所。
江戸三大大火のうち最大の被害を出した明暦の大火の最初の火元となったとされる寺院(異説あり)。明暦の大火は世界三大大火に数えられる場合もあり、その被害は関東大震災や東京大空襲に比肩し、日本史上でも最大の火災である。元は浜松城北東の地に創建された寺院であるが、天正18年(1590年)の家康入府に際して江戸城内に移った。その後は寺地が幾度か変わるが、寛永13年(1636年)に前寺地の小石川で伽藍が全焼し、幕府の命でこの地へ移ってきた。明暦3年(1657年)1月18日未の刻(新暦では3月8日の14時頃)、御施餓鬼のお焚き上げから出火と伝わる。異説では、当寺の隣にあった老中・阿部忠秋の屋敷が火元で、「火元は老中屋敷」と知れ渡ると幕府の威信が失墜してしまうため、幕府が要請して当寺が火元を引き受けたという(明治時代以降は、当寺の公式見解)。この説は、空前の大火を引き起こした当寺がその後に同所で再建され幕府により触頭にまで取り立てられたこと、また阿部家が大正時代に至るまで多額の供養料をその後も寄進していたことを論拠としている。その後、明治43年(1910年)に現在の豊島区巣鴨5丁目へ移転した。遠山の金さんのモデルである遠山景元の墓所や、千葉周作の墓所もある。
あの明暦の大火の出火元。日本史上最大の大火であり,地震を発端とする火災を含むと,関東大震災に次ぐ死者数と被害範囲を記録すると評される※。大火後,本妙寺は巣鴨に移ったが,同寺は現在も続いており,遠山の金さんのお墓などがある。また,火事によって焼け落ちた江戸城天守閣は,以降再建されなかった。稀に幕末を舞台とした漫画作品などで江戸城天守閣を描くものが見られるが,これは明確な誤り。また,以降明暦の大火の様な延焼を遮断するため,江戸の各所に「火避地」や「広小路」などと呼ばれる開けた土地が設けられた。現在の上野,音羽,浜松町などの大通りは,これら江戸期の広小路の範囲をそのまま受け継いだ。つまり,明暦の大火は,江戸及び東京の都市デザインに少なからずの影響を残している。現地案内板によると,明治以降は当地に尋常小学校等が建てられた様である。※近年関東大震災の死者数が十万五千三百八十五(火災による死者は九万二千余)に下方修正された。他方,明暦の大火による死者数は,(史料によりばらつきがあるため,)三万七千から十万八千までのグラデーションがある。したがって,当時の史料の最大値を批判しなければ,死者数のランキングが逆転する。
| 名前 |
本妙寺と明暦の大火跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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本妙寺 (現在は豊島区巣鴨) は旧菊坂82番地 (現本郷5-16)の台地一帯にあった法華宗の大寺院でした。境内には北町奉行“遠山の金さん”こと遠山左衛門尉景元、幕末の剣豪千葉周作や囲碁の本因坊歴代の墓所がありました。明暦3年(1657) の大火 “振袖火事” の火元とされていますが、諸説あります。 この大火後、 幕府は防火対策を中心に都市計画を打ち出し、 文京区の地域には寺社、武家屋敷などが多く移転してきました。今は道端に案内板が立つのみです。