竹林に囲まれた橘諸兄公の史跡へ!
橘諸兄公旧跡の特徴
井手町の竹林に佇む、橘諸兄公旧趾と供養塔の石碑が印象的です。
奈良時代の左大臣を偲ぶ歴史深い場所、大変な坂道を進む特別な体験ができます。
井手廃寺の発掘現場も近く、古代の地層が見られる魅力ある史跡です。
奈良時代の左大臣のお墓です。歴史小説『阿修羅』梓川要著によると平城京より離れた山里に住居があったところです。道が狭く竹藪のなかを上がりますので車でいくのは注意が必要です。息子の奈良麿の墓はありません。気になります。
竹林の中にあります。1台くらいなら入り口に駐車できます。石碑の大きさに驚きます。地元愛が伝わってきます。
竹藪の坂道をずんずん進むと立派な石碑が。なぜこんなところに?と思いましたが、この辺りは山吹の名所として古代から沢山の歌に詠まれた名所らしいです。
竹林を抜けて 行きました。女の一人歩きは ちょっとやめたほうがいいところです。が、奈良時代や歴史の遺品をちりばめた 井手町です。 もったいないほど❗️
井手廃寺の発掘現場に行ってみました。木津川右岸の高台は西に向かって緩やかな傾斜地が広がり、このスペースは寺院の建設には最高な地形となっている。今回の発掘現場の痕跡は塔の跡と言う事が素人目にもよく分った。敷地から推測されるのは五重塔だとの事。橘諸兄の時代を思い起こせば奈良の都のような姿が想い描けて、嬉しくなりますね。少し余談ですが、三十年位かな?前には橘諸兄の墓と言われていた場所が「橘諸兄公旧跡」となっていた。
井手火山灰層という100~200万年前の東方の火山噴火による火山灰が堆積した地層が崖になって見える場所がこの橘諸兄公の史跡への石段の前辺りにあります。諸兄公については奈良時代の左大臣として、中高生の歴史にも出てくる程の人なので殆んどの日本人は名前は知ってるでしょうが、現在京都府の井手町の辺りが当時は奈良文化圏に在ったのが公に関する伝承でよくわかります。
史跡は正確に書いてください井手町の案内パンフレットは間違いです。
玉水橋からサイクルナビをスタートさせてやって来たが、途中から結構な坂道。特に石柱の案内を左折して竹藪方向へ上がる道は激坂。一回足を着いた。最後の石段を上がって、まず目に付いたのが石のベンチ。息を切らして上がって来たので実にありがたい。ひと休みして見まわすと静寂と木漏れ日、まるで時が止まったような空間。奈良時代の権力者は良い場所に眠っている。供えられている榊がみな新しい。1300年近く経っても手入れに怠りがないのは、井手町にとって特別な人だからなのだろう。
元明天皇〜元正天皇〜聖武天皇〜称徳天皇と、4人の天皇に仕えた宰相です。特に聖武天皇の信任は絶大だったと言われています。藤原不比等〜長屋王〜藤原四子の後が、橘諸兄の時代です。「諸兄」という名前からすると、気さくで、相当人望があったのではないかと推察します。
名前 |
橘諸兄公旧跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0774-82-6168 |
住所 |
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HP |
http://www.town.ide.kyoto.jp/rekishi_kanko/kankou_meisyo/1417411160828.html |
評価 |
3.5 |
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井手町東部の竹林に橘諸兄公旧趾参道と記された石碑がありますが、そこの石段を昇ると橘諸兄公旧趾と井手左大臣橘諸兄公供養塔の二つの石碑がある広場に出ます。自然石の石碑は文字が深く彫り込まれていますから大きさもあってインパクトがあります。あと、石碑の他に名前のとおり橘の木が植えられていますが、今は竹林の日陰のせいか実はついていないようです。ちなみに石碑に橘諸兄「公」とつけているのは橘諸兄が左大臣だったからでしょう、太政大臣、左大臣、右大臣の3つを三公と言いますから。井手町以外ですと木津川市の鹿背山にも子孫の橘清友公の墓所があったようですし、橘一族がこのあたり一帯を勢力圏にしていたようです。